うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

秋果 林芙美子 著

この作品の時代の30歳女性は、いまの40歳くらいの感覚じゃないかな。
今日は一日なにしてたっけ。それにしても、毎日あれこれやっていながら、なにも成し遂げていない。・・・なんて思う夜に林芙美子の小説を読むと、なんだか気が休まるのです。
それが生きてるってことなのだろうと思えてくる。心がほんの少しだけ筋肉痛になる。それで、生きていると感じる。

神樣、私と云ふ女だけが間違つた生きかたをしたのでせうか……。

『放浪記』を読んだ時にも思ったけれど、この作家の作品は「神様」への語りかけに嘘がないところがすごくいい。日本人の祈りの狡猾さや薄っぺらさを知ったうえで、それをどう扱うか、鋭い感度で見ていたのだろうな。『浮雲』では新興宗教のリーダーを登場させることで、それをユーモラスかつナマナマしく見せていたっけ。


上記の一行だけを抜き出すと、いっけんただの少女漫画のようなつぶやきに見えるかもしれないけれど、そのあとに続く文章の現実描写は一文字も無駄のない確実なリズムで、完璧なピアニストの演奏のようです。

林芙美子の小説のなかの「乙女チックな一文」は、その一文がないと完璧になりすぎるから差し込まれているベビーピンクの差し色。読む人を無駄に高尚な気分にさせない、緊張させない。抜群のバランス感覚。

林芙美子本人が亡くなっているのに川端康成が葬儀で意地悪なことを言って評判を下げたくなるほど嫉妬したのもわかる気がする。老舗旅館がリッツ・カールトンのサービスの評判に嫉妬したってしょうがない。そういう "新鮮な文章サービスの概念" を生み出したんじゃないだろうか。

 

この短編小説は、はじめての男(ひと)が忘れられない女性の物語。乙女心と向上心が混ざった状態が、ゆるふわに見せかけつつデッサンはバッチリな記述で書かれ、『放浪記』の超ショート版のような味わい。
林芙美子は、女性のなかにある男性性(しつこさやガッツ)をドラマタイズせずに自然に描写ことができる、希有な作家だと思う。