ただ流行っているというだけで、なんとなく「あるがままでいいんだよとか言うんじゃないか」などと勝手にイメージに色をつけて臨んだらとんでもない目に遭った。よい意味での驚きとして。この本は1999年に出た本です。
基本的に「所属欲求」を認めきったところからはじまっている。そして感情は行動の原因ではなく、他人を動かすために使っているものなのだという。この理論立てだけでそうとうガツンとくる。さまざまな説がひっくり返る。いいぞいいぞ! わたしがうまく言語化できずに苦しみこっそり処世術にしている「演歌の世界観で他人をコントロールしようとする人は避ける」ということの裏づけがばっちり系統立てて解説されてしまったようで、こわい。
わたしは「それらしい理由」を表明されたとき、それをすると結局聞き手がそれを信用するかしないかが好みに左右されてしまい、表明した人にとってはかなりリスキーと思うのだけど、いまひとつこの考えが周囲に理解されません。もっとナマナマしく書くと「それらしい理由」を使うことが有効になればなるほど美醜で得をする人間社会ができあがりはしないだろうかと思っているのだけど、まるでわたしのほうが性悪説みたいに扱われてオヨヨとなる。
が、アドラー心理学のなかではそうならない。
アドラー心理学のなかでは
わーかっちゃいるけどやめられない♪
(あそーれ)
は、認められない。
やりたいから、やったのでしかない。
そしてそれは
やりたいなら、やるでしょう
でもある。
わたしは戦争を避ける方法として、漠然といい人に見られたい人に向けては「やったからには、やりたかったということになる」という筋立てが有効ではないかと思っているのだけど、世の中それでも「しかたがなかった」の励ましがいっぱい。わたしもそれがなくなったらつらいだろう。わたしもたまに、都合よく演歌の花道のテイストを引用するから。
この本を読みながら、誰だって所属する場のない状況は、単独はつらいのだと、そんなことをありありと思った。思いのほか絶・対・積・極☆という野太い内容だった。
わたしは「怒りが腰痛につながる」「前傾のつま先が腰痛につながる」と自身の心身をとらえて掘り下げていたのだけど、アドラーの心理学でいうと腰痛と怒りの一段階前に、他人をこう動かしたいという欲求があることになる。要職になる頃に腰痛になるのは年齢との重なりととらえていたけれど、仕事を変えたら腰痛が治る人は多いかもしれない。
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