先日、このふたりの作家に対する尊敬の理由が全く同じであることに気がつきました。友人と雑談をしながら気がつきました。ヘルマン・ヘッセもさくらももこも(「も」が多いね)多く著作を読んだわけではないけれど、子どもの設定・子どもの口調のなかに「おとなになっても純粋なぼく(わたし)」を織り込むことを丁寧に避けている、そういうところに信頼感を持っています。
それは子どものずるさや成長過程のナマナマしさを表現することでもあって、ちびまる子ちゃんに出てくる人物はどれも自分の一面に見える。野口さんも大野君もみぎわさんも永沢君も藤木君も、わたしの中にいる。
「ちびまる子ちゃん」に、すごく好きなエピソードがあります。まるちゃんが百恵ちゃんの初期の歌(処女をささげる)を歌って、お母さんから「その歌はやめなさい!」と言われるやりとり。まるちゃんが「えー、なんでー」としぶしぶ百恵ちゃんの別の歌を選ぶと、百恵ちゃんはまた処女を捧げようとしていて、その歌もやめなさいと言われる(笑)。山本リンダの歌なら勢いでOKという治外法権を示したりするところなども「うまいなぁ」としか言いようがありません。エピソードの中に「女の子と世間」の要素が詰まっているけど家庭の領域から出ていくことはないし、そこに作家の主張を乗せてこない。
ヘルマン・ヘッセの小説にも似たものを感じていて、なので昨年の関西の読書会で課題図書にすることができました。子どもが主人公の物語のなかで大人が演説しているものを読むとき、わたしはときどきしらけてしまうのです。
「子ども」の設定や口調に便乗するのは、ずるすぎないか
大人の作家が書いていることは著者名でわかるのだし、そもそもいっこく堂みたいに存在が横に出ている。理論上はそうなのだけど、「それはずるい」と感じる。子どもを主人公にした大人向けの物語を読んでいる自分もずるい気分になってしまう。
話は40年近くさかのぼりますが、「パン」にしゃべらせるやり方を、わたしは子どものころ「いやな角度から来るなぁ」と思っていました。「いちご新聞」に載っていたモノクロの「あんぱんまん」を読んでそう思っていました。まだひらがなの頃の、カタカナになる前の話です。知ってる人、どのくらいいるかな…。
そのモノクロの「あんぱんまん」に対して、いくらこちら(人間)がお腹を空かせてしんどい状況だからって「ボクを食べてよ」って頭を差し出してきてほんとに食べたらこっちが槍玉にあげられるのだよね…と警戒しながら読んでいました。初期の「あんぱんまん」は今と仕様が違って4頭身くらいで、比率が "やさしそうにふるまう、コスプレをした大人ふうで、顔だけパンな人"でした。なので大人からやさしくされて調子に乗ってガツンとやられる経験を詰んだ子どもは、4頭身のあんぱんまんのやっていることに躊躇します。さては罠か? と。
ちびまる子ちゃんもよく、調子に乗ってあとでガツンとやられていました。あれを見るのが、わたしにはものすごく救いになっていました。なので昨年作者が亡くなられたときには、これまでに感じたことのない悲しさがありました。中途半端な存在でしかいられなかった子どもの期間をそのまま肯定してくれる人がいなくなってしまった気がして。
今日はなにも、しんみりすることを書こうとしているわけではありません。
視覚情報から想起する感情のことを書いています。動物に憑依するやり方にも、わたしは先ほどの「あんぱんまん」(ひらがな時代)に似た感覚を持ちます。
大人になってから「吾輩は猫である」を読むと、夏目漱石のやり方を誠実と感じます。ひらがないっぱいの猫だと、名作も二行で終わってしまう。先が続きません。ためしに変換してみました。
ぼくは、ねこ。なまえはまだない。
どこで生まれたか、ぼくはさっぱりわからない。でも暗くてしめったところでニャーニャー泣いていたことだけはおぼえていて、ぼくはここではじめて「にんげん」を見た。
夏目漱石の書く猫はもうこの後からいきなり人間のディスりを始めるので、ひらがなでは書き続けられません。(おもしろいから、冒頭だけでも読んでみて!)
先日、小さい生き物+ひらがなの組み合わせに対するもやもやした感情を友人に話したら、以下の二点を差し出されました。作者のこれがいやなんだよねと。
- 「子ども=ピュアな存在」を使って、自分はそっち寄りだというアピール
- 「これが理解・賛同できないあなたは汚れた大人ですね」という優越感のようなもの
この言葉で気がつきました。
わたしは子どものふりをした大人から罪障感(ざいしょうかん)を刺激されるのが不愉快なのです。罪悪感の刺激は学びや戒めになります。でも罪障感の部分は踏み込まれすぎだと感じる。
このことに気づくと同時に、今日のタイトルにした二人の作家への敬意の理由もくっきりと見えてきました。ヘルマン・ヘッセもさくらももこも、物語の中で「これに賛同できないあなたは汚れている」と言ってこなかった。そして日々のことや思考について書くエッセイの時は、けっこうやな奴なのです。
わたしはこういう仕事のしかたに誠実さを感じます。夏目漱石のように「さあ今から猫のふりしたおっさんが人間の本性に迫りますよ」というのも同様に誠実と感じます。そのユーモアにやさしさを感じます。パペット・マペットも夏目漱石と同じ理由で大好きです。