うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

寄生している罪悪感から解放されたいという欲望

寄生というのは共生に含まれるもの。だから子どもが親に負担をかけていることを気に病まなくていいのかもしれないけれど、気に病む気質の人間は子どもの頃から気に病む。
わたしよりも少し若い人の書いた小説を読むと、似たような感覚の描写があってどきどきする。「夏物語」も「地球星人」も、子ども自身が性格や金銭面で親に負担をかけていることを気にしている。自分がいなければ家族はもっとラクだろうにと、親に寄生して生きている自分を呪っている。(同じ作家の芥川賞受賞作「乳と卵」「コンビニ人間」にもそういう描写がある)

わたしはこういうメンタルの状態を自分のなかで「おしん病」と呼んでいるのだけど、無駄飯食らいなのに今日も食べるわたし…と子どもの頃に思っていた感覚がたまに甦ります。コミック版「おしん」のなかで、お婆さんが「おらみたいな無駄飯食らいがいるせいで…」というようなことを言う場面があって、「無駄飯食らい」というフレーズを強く記憶しています。

 


わたしはこれに似た感覚が仕事では「組織」に対して起こります。組織のなかで評価されても、それはさておき「寄生している」という無条件のビハインド設定が自分のなかに根強くあって、外部から見ると「自分に厳しい人」「上昇志向」ということになるのだけど、上昇とはちがうんですよね…。いつもどこかに、マイナスをせめてゼロにしたいという気持ちがある。

 

 

 歓迎されていない

 

 

ただ存在しているだけでは歓迎されないから、なにかをする。がんばる。
その「なにか」について考える存在が「自己」で、考えるエネルギーが「自我」であろうか…なんてことを考えるようになったのはヨガをはじめてだいぶたってからのこと。

 

そして近頃は別のことに意識が向くようになってきました。神や宗教の概念を考えた人って、すごいわ…。祈りのシステムって、すごいわ…。と思うようになりました。自分の力ではどうにもならないことに思いを寄せていては日々の義務を果たせない、そういう立場の人が世の中にはたくさんいる。平日の昼間に寺院へ行くと読経の参加者には中小企業の社長さんたちがいて、酉の市のシーズンである今は、これはこれで別の活気。


いまわたしはこんなふうに世の中を見ている状況を少し気に入っていて、これからも細かくチューニングを続けながらこの世界の秩序や仕組みに、この世の住人の一人として斜に構えずに関わっていきたいと思いがあります。生まれてきたからには、生まれてきてしまったからには、やっぱり歓迎されたい。

こういう気持ちになるまで、わたしはずいぶん年数を要しました。自分の欲を掘り下げて向き合うって、たいへんなことです。寄生している罪悪感から解放されたいという思いを、「願望」ではなく「欲望」であると思えるようになっただけ、少しは主体性が育ってきたかな。もっと太くなりたい。

身体は太くなりたくない食欲の秋の夕べに、わたしはこんなことを考えています。