あとになってやっと人に話せるようになることがたくさんある。
先日も古くからの友人に「わたしその話聞いたことあったっけ?」と言われて、「ない。はじめて話した」ということがあった。
この漫画の登場人物たちと同じように、日常のなかでゴリッとぶっこまれる強引な案件は、わたしも認知をぼやかして記憶する。そうやってしのいできた。
そのときは友人に、家にあった統一教会の壺の話をした。
世間的に話しやすいタイミングがきたから話しただけで、それはわたしの子ども時代の一時期の日常。一緒に住んでいた年配の人が入信しハマっていった頃を見ていた、という昔話で、わたしの親はいろいろ大変だったと思うけれど、親が二世にならなかったのでそこで終わった。
こういう「認知のぼやかし」を、わたしは慈悲のカテゴリに属すものと思っているところがある。誰のことも憎まないように、恨まないように、そうするものだと思っている。
そういう気持ちを、この漫画家さんは描く。え、それ描けるん? 描けてしまうん? という驚きが今回の読書でも起こりました。
状況が強引なときに、それは起こります。
この本では、同じ集合住宅に住んでいる強引な人に応対する夫婦が、その応対のなかで信頼関係を築いて戦友みたいになっていく様子が「ぼやっと」描かれていました。
やんわりと結婚させられる人の展開も、「させられる」と思わないために毎日自分で自分をゆるい頭に変えていって、悪く考えないようにして、「ぼやっと」受け止める。その数時間のプロセスが描かれていました。
相手がやさしい人でよかった。こればっかりは運。
身近にいる、ちょっと凶暴でどう対応していいかわからない人への戸惑いとか、そういう人から受けるインスピレーションとか、子どもの頃からその都度いろいろ考えてきたことが思い出される話もありました。
他人にやさしくあろうとしてそれが空回りしてしまうときは、自分の残酷さを見るプロセスがまだ足りないのだけど、見ることを放棄していきなり偽善者を演じられる人よりは、ちょっと足りないまま空回りしてシュンとするくらいのほうが、やっぱりやさしいのだと思う。