余計な説明がなく絶妙なバランスで、いろいろ思い出したり考えることの多い映画でした。まるでドキュメンタリーのよう。
この映画を観たきっかけは、少し前に読んだ平野啓一郎さんの小説『本心』とテーマが似ていて、ちょうどその時に自分で死を選ぶことができる制度について考えていたから。
世論が静かに今とは違う方向へ流れていったバージョンの日本を見ているようで、わたしは自分が過去に感じたことをいくつも具体的に思い出しました。
全部書き出したらすごく長くなりそうなので、今日は3つピックアップして書きます。映画と直接関係することではなく、映画を観ることで思い出したことです。
1)『おしん』で知った高齢者の気持ち
2)「恥」と「生き延びたい」を天秤にかけた小さな経験
3)死ぬ○ヶ月前まで仕事をしていたいと友人と話したときのこと
わたしがこの映画を観ながら漠然と思い出していたことのひとつめは、『おしん』にあったセリフです。
セリフはコミック版で読んだ文字で覚えているのですが、おしんのお母さんが子供を流産させるために川に入ったり(←ここはセリフなしの絵だけ。大人になってから行為の意味を知って驚いた)、その他にも、働けないおばあさんが「オラみたいな無駄飯喰らいが」というセリフがあって(そのせいでおしんが苦労していると考えている)、その頃から ”無駄飯喰らい” という表現に複雑な感情を持っていました。
『おしん』が流行った頃は日本の景気が良い時代でしたが、当時よりも今のほうが『おしん』の時代に近くなっているように感じて苦しくなりました。
二つ目は、「恥」と「生き延びたい」を天秤にかけた経験です。
はじめて高野山へ登ろうとしたときの失敗の経験です。真夏に軽いノリでそれを決行し、わたしはあまりに乾き、田んぼの泥を飲もうか迷うほどでした。
道に迷って民家で道を尋ね、そこまでしておきながら、その家の人に「お水をください」と言えませんでした。
なんとか駅までたどり着き、自動販売機がなく絶望したところで、やっと駅員さんに飲み物がないか尋ねることができました。小さな出来事ですが、わたしは民家へ「ごめんください」と入っていったときの葛藤(身体が全力で水をくれといっているのに、恥の意識がまさって身体を犠牲にした)は、普段「身体の声をきく」などと言いながら、実際にはそれができなかった自分の経験としてよく覚えています。(以前ブログにも少し書きました)
「生き恥をさらす」という表現はかなり強く独特だと思うのですが、映画の中で、日本にはかつてお国のために死ぬという価値観があったから、高齢になって自ら死を選ぶことをポジティブに捉える制度が早く実行されたという設定になっています。
三つ目は、昨年25年ぶりに会った学生時代の友人たちとドライブをしながら話したことです。
わたしが「死ぬ三ヶ月前まで仕事をしていたい」と言ったら「えー。やだ」と言われて、その直後に「わたしは一ヶ月前まで仕事してたい」と友人が言ったのです。「ならわたしも一ヶ月!」と言って笑ったのですが、そのとき、それが妙に励みになったのでした。
配偶者も子供もいる人、配偶者だけいる人、独身のわたしという三者三様の組み合わせでそんな話をして、笑った。そのときの気持ちが、今でも忘れられずにいます。(以前ブログにも少し書きました)
この映画は75歳以上のおばあさんが四人で行動する場面が印象に残るのですが、境遇はみんな違っていて、ひとりで住んでいるおばあさんが二人出てきます。
この二人はもう運や境遇の話をするような人生の時期を超えていて、別の次元にいます。だけど、「今日は泊まっていけばいいじゃない」という話をする時の二人は、一人暮らしのOL同士みたい。
この年齢で、仕事仲間で、この感じのおばあさん達という設定を他に見たことがなかったので、ものすごく印象に残りました。
おばあさんたちはホテルの客室清掃員をしている同僚です。
ほかにも70代後半での転職活動とか、セリフは少ないのだけど、生きる世界はハードモード。ぜんぜん他人事じゃない。
新潟で起こった三幸製菓の夜の火災事故で高齢労働者が亡くなった件とか、冒頭でほとんどの人が想像するであろう、やまゆり園の事件とか、リアルで起こっていることが思い出されます。
おばあさんだけでなく、おじいさんも出てきます。
とても印象的な男性同士の食事のシーンがあって、PLAN75を選んだ高齢者のほうが背骨が伸びていて、そうではない若者のほうが背中を丸めて食べている。これを真横から撮っているのが絶妙で、客室清掃中のおばあさん達も、役割やTO DOを与えられている瞬間には背骨が伸びています。
説明は少なく、セリフも多くなく、背骨に情報が多い。
この映画を観たのは昨日(7月7日)でした。
昨日はたまたま昼前からずっと外で活動していて、移動時の地図以外の目的でスマホを見ることがなく、夕方にそのまま映画館へ入り、夜に帰宅してから衝撃のニュースを知りました。
そこから少しニュースを追いました。テロリストの思考を憶測で報じながら語る、ここ数年でよく見る論調を耳にしながら、この映画では中高年の人の存在感がなかったことを思い出しました。
PLAN75の拡充でPLAN65が始まったら、あと20年くらいで死を選べる前提で40代後半の人がライフデザインを考えてしまう。「そういう選択をする」の「そういう」の背景って、誰かと話して整理できるもの? エイヤッを促してるだけでは?
この映画はドキュメンタリーではないのにドキュメンタリーのように感じられて、思考を淡々とリアルにシミュレーションすることになる。
以前『帰ってきたヒトラー』という映画を観たときに、ドイツでこういう映画が作られることに感嘆したのですが、この『PLAN75』は、日本でこういう映画が作られることに海外の人は驚くのではないかと思います。
お国のために覚悟を決めたりハラキリの文化があった国で、こういう映画が作られている。なにかの殻を破った、と言ったら大げさかもしれないけれど、でも、ほんとうにそう思う映画でした。
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