うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた アダム・オルター著 / 上原裕美子(翻訳)

なんでも依存症で片づけてしまうのは仕掛ける側の都合のいい論理。だからこそ、ときどきさまざまな角度で振り返っておきたい。
たとえばこのブログ。わたしはここに予告・計画話や裏話・暴露話を書かない。だれかとの思い出を名指しで大々的に写真付きで語ることは控え、コメント機能も7年前に廃止し、なにかプライベートでショックなことがあったのかな…と思わせるような「匂わせ系」「思わせぶり」なタイトルを避けています。自分の身に起こったちょっと話しいにくいことは、時間をかけて掘り下げます。こんなふうに、日々気をつけていることがたくさんあります。

数年前までは違いました。それまで行っていた仕事の手クセでウェブサイトのアクセス数を増やすための手法が沁みついており、呼吸をするようにあざといことをしていました。それをあまり抑制していませんでした。コメント欄から話しかければ当日か翌日に「うちこ」からハートフルな返信が必ず書き込まれる仕様であった当時のこのブログは、依存の撒き餌だらけでした。
でも、いまはそれをしません。

 


── まあでもね。でもさ。それがビッグ・ビジネスとなりゃあ話は別。なんなら世間は依存症にさせてなんぼという仕組みであふれてる。この本はそれをさまざまな角度から解説してくれます。
キム・カーダシアンのセレブ体験ゲームなど、存在は知っていたけどアメリカはスケールがデカい。ベトナム戦争でヘロイン中毒になったベトナム帰還兵がなぜ帰国後にそれをやめられたのかという話は逆の意味でぜひ読んだ方がいい。これはためになる。
テトリスはハマる気持ちがよくわかるから、こんなふうに説明されると「そう、そこなのよー」となります。
(補記:以下の「パジトノフ」というのは、テトリスの開発者)

 パジトノフの友人で、プログラマー仲間でもあったミハイル・クラーギンは、テトリスをやっていると自分の失敗を正したいという強い衝動を感じた、と語っている。
テトリスは、強いネガティブなモチベーションを抱かせるゲームだ。巧くやれるのはまれで、もっぱら自分の失敗を画面上で見つづける。それを片付けたくてたまらなくなる」
 パジトノフもその見解を肯定している。「目に飛び込んでくるのは、みっともない失敗の跡だ。つねに『なんとか攻略したい』という思いへと駆り立てる。
(第7章<4>難易度のエスカレート 行動嗜癖がまとう創造や進歩という名の「マント」 より)

わたしは過去を振り返って、「うまくいってなくないもん!」という気持ちほど危険な状態はないと思っているのだけど、テトリスはそこを巧みにくすぐる仕組みでもあるね…。


そして同じくゲームの話。スーパーマリオブラザーズに夢中になった子供の一人だという著者が

ニュージーランドの親戚の家に行った10歳の私にとって、誘拐されたお姫様を探すマリオという配管工は、まさに心をがっちり釣り上げるフックだったのである。

という箇所を読んだときは、およよとなりました。
スーパーマリオについては、わたしはこの著者とは違う感覚で依存症にさせられていたなと。それは「音」。いまでもあの電子音を聴くと背骨の根底から興奮します。そしてあのカラフルな外国人っぽいキャラクター。マリオとルイージはどこの国のおじさんなのか。ブラジル人のような名前の年齢もわからない派手なおじさんたちに対し、ピーチ姫は金髪。ちょっと若そうに見える。
それが著者(外国の人)の感覚では「誘拐されたお姫様を探すマリオという配管工」と最初から認識されている。そうか、あの服は配管工の服なのか。そういえばスーパーではないマリオの頃はパイプがたくさんある画面だったな…。

 

この本の後半はゲームやSNSの話が中心になりますが、前半は薬物依存の話。依存という心の状態に関する解釈の歴史をその時代ごとの事例とともに紹介しながら、さまざまなことを考えさせてくれます。
わたしがいちばん印象に残ったのは

薬物に対する「好きであるということ(好感 liking)」と「欲しいこと(渇望 wanting)」は別物

と書かれていた部分。

その先には、こうありました。

好きなだけでは依存症とは言わない。依存症患者というのは、摂取している薬物が好きな人のことではなく、むしろ生活を破壊する薬物への嫌悪感をつのらせながらも、たまらなくその薬物を欲しがる人のことなのだ。渇望は好感とは比べものにならないほど排除しにくく、だからこそ依存症の治療はこれほどまでに難しい。
(第3章 愛と依存症の共通点 常識を覆した衝撃の実験 ──「好き」と「欲しい」は違う より)

そのしんどさについて、別のトピックにこんな記述がありました。

手術からの回復期間中にモルヒネに頼る入院患者は、短期的に見ても長期的に見ても最善の策をとっている。
 これに対し、患者ではないのにモルヒネを欲しがる常習者は、短期的には気持ちがよいが長期的には害であると知っていてやっている。私が取材した現在および元行動嗜癖患者の多くが、同じことを口にした。依存行動は決して甘美ではない、と言うのだ。目先の強い満足感に浸っている最中にも、自分の幸せを蝕んでいることを忘れたくても忘れられないのだという。
(第3章 愛と依存症の共通点 スウェーデン人研究者が注目した、奇妙な反復行動 より)

仏陀のいう喝愛って、きっとこういうことなんじゃないかと思いながら読みました。先に「欲しい」があって「好き」ってことにしてたことって、自分の過去にもたくさんある。対象への獲得意欲をセーブしながら「好き」でいるために距離をおき続けられるかどうかが、「好き」を証明できるかの鍵。

 

薬物については、その理解の歴史についてフロイトのことが書かれていました。フロイトとコカインの話はこの本ではじめて知りました。

 フロイトがコカインに心惹かれた理由は、当時、依存症は心の弱い人間がなると考えられていたからでもあった。知性と依存症は両立しない、と。だからロバート・クリスティソンと同様に、学会における知の影響力の最頂点にあった頃にコカインと出合ったフロイトは、自分は大丈夫だと思ったのだ。そして誤解が高じて、コカインならばモルヒネの代用になる、モルヒネ依存症を解消できる、と確信してしまう。
(第1章 物質依存から行動依存へ フロイト、コカインを推奨す ── ドラッグ中毒の歴史 より)

心の弱い人間=知性がない、ではないからむずかしいですよね…。むしろ批判を先回りして取りにいくような、サービス精神を 無理な範囲まで想定して発揮しようとする、そういう性質は知性と両立しやすい。でもフロイトの時代はそういう理解ではなかった
みたい。


依存症ビジネスは形を変えてずっとあり続けるだろう、そういう視点で書かれている本ですが、以下についてはうなずきながら読みました。

依存症治療というパズルを完成させる重要なピースは、自分の身を置く状況をデザインすることだ。誘惑が可能な限り近くに存在しない環境を作ってしまうのである。「行動アーキテクチャ」というテクニックは、この発想をベースとしている。
(第11章<2>行動アーキテクチャで立ち直る 「できない」と「しない」── 宣言の仕方でここまで変わる より)

避けたい行動や体験をすることに対して自分が不快になる仕組みを作っておくのである。
(第11章<2>行動アーキテクチャで立ち直る 自分に「罰」を与えるデバイスを使って依存を断ち切る より)

環境をガラリと変えることの有用性が、この本を読むとよくわかります。「あるけど使わない」とか「できるけどやらない」というのはむずかしい。物理的に離れないとむずかしい。

 

わたしはテクノロジーに依存しひきこもる自分を正当化しだすとやばい、そういう性格を自認しています。なので他人との交流をなくさないために週に2回はひとりでも外食をするようにしていたり、いくつかルールというか型に入れている生活スタイルがあります。「自分は他者からどんな人間として認識されていることが快適か」「誰に、どんな人に認められたいか」ということを考え、自分を好きでいられる方向に向けて見栄を張るってだいじだなと、ここ数年で考えるようになりました。
この本は「ついそうなってしまう状態」について、自分なりに考えてみるきっかけをたくさん投げかけてくれます。

僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた

僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた