うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

乳と卵(らん) 川上未映子 著


これはすごい。この感じを言語化できるんだ…、という思いが読書中に何度も押し寄せます。感情のマッサージ。
文体が独特で、最初の印象は「町田康っぽい」と思ったのですが、途中で「坊っちゃん」の「菜飯となもし」のくだりのようなスピードになります。いろんなことを同時に考える感じが文体のリズムにすごく合っていて、関西弁だから脳内再生も速い。これはハマると快楽物質が出ます。わたしはたくさん出ました。
銭湯で立て続けに目にする「いろんな乳の形状の描写」の場面と、化粧派と豊胸派による「男根主義の影響じゃないわバトル」のトーク場面がいい。


文体はそんな感じでありながら、視点は「自分の心のなかに血が流れているのを自分で見ている感じ」にふわっと切り離される。「ヘヴン」でいじめにあっている男の子の心理描写でも同じ感覚になった。この「ふわっと俯瞰」は、クセになる。なんでも明確に言い切る答えが欲しい人にはもどかしいかもしれないけれど、こういう安らぎかたってあると思うのです。


そしてひとつ、これは!!! と思う描写がありました。
(銭湯の場面)

 肌の分量がとても多く、この裸の現場においては、普段ならかなりの割り合いで識別の重みを持つ顔、という部位がとんとうすれ、ここでは体自体が歩き、体自体がしゃべり、体自体が意思をもち、ひとつひとつの動作の中央には体しかないように見えてくるのやった。わたしはそれを思いながら行き来する女々の体を追ってると、よくあるあの、漢字などの、書きすぎ・見すぎなどで突如襲われる未視感というのか、ひらがななどでも、「い」を書き続け・見続けたりすると、ある点において「これ、ほんまに、いぃ?」と定点決まり切らぬようになってしまうあの感じ、今の場合は、わたしの目に女々の体がそうなってきており、だいたいなぜあそこが膨らみ、なぜ一番てっぺんに黒いものが生えており、しゅるっとなってこのフォルム、そしてなぜここでだらりんと二本でなぜ足はあのような角度で曲がってこんな具合をしているのかの隅々を、見失ったというか改めて発見したというかの状態になって、そのあらためて感から抜け出せぬような予感におそわれぞわりとおそろしくなり、「ま、巻ちゃんは、さっきから何を見てるの」と声をかければ、「え、胸」と即座に答えた。

ここを読みながら、ヨーガ・スートラ第2章40節を連想しました。「浄化によって、自分自身への身体への厭わしさ、他人の身体に触れることへの厭わしさが生ずる」という節*1
この銭湯の場面の長い一文でぐわっと没入して、「そのあらためて感から抜け出せぬような予感におそわれぞわりとおそろしくなり」のところで、清浄なものが不浄を脱ぎ捨てて浮いてくる感じになる。


この小説の中では「嫌」ではなく「厭」という漢字がずっと使われていて、この小説のなかの世界には「いとわしさ」があふれていて、それが愛情の半面であったりする。「いとわしさ」を少女が文章化している文章がまた、たまらない。これはすごい小説ですわ。


後に収められていた短編「あなたたちの恋愛は瀕死」のラストの文章も、異様な良さ。異様に良い。なんじゃこりゃ!
久しぶりに、目で文字を追いながら自分がなくなる感じがしました。未読のかたは、ぜひ。


▼紙の本(なぜか英語と書いてあるけどアマゾンの間違いだと思われる)


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*1:この日本語訳は伊藤久子さん⇒参考