うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

夏物語 川上未映子 著

「生理的に無理」という表現を、わたしはおそろしく思ってきた。
嫌悪感についてよくそんな最終カードみたいなフレーズを生み出したものだなという、そういうおそろしさ。すべての努力の余地を認めないおそろしさ。でも、感覚としてはわかる。たとえばゴキブリ。でも人間に対しては使わない。「キモい」というくらいの軽さでこのフレーズを使う人がいるけれど、わたしは避けてきた。"生理現象" と "それを口にする意思" の間には攻撃意欲がある。結局のところ、「嫌い」の主語は自分だ。


この小説を読んでいたら、そのことについて何度も考えさせる強烈な人物が登場した。まるで自分を試されるようだった。その人物は男性で、「精子」に絶大な自信を持っている。自信にもいろいろな性質があるものだと思いながら読んだ。もしかしたら女性が男性に対して「生理的に無理」というときには、自分には持ち得なかった、この男性が持っているような想像のつかない種類の自信をおそれているのかもしれない。言葉にできないおそろしさ。そんな思考がぐるぐるした。

 


この物語は死生観について「出生」を軸にあらゆる角度から分解していく。男性の自信と失望も置き去りにしない。自分の精子に自信のある人の話を聞きながら(読みながら)、生命力への自信はこんなにも揺るぎないものなのかという発見が、発見ではあるが既知でもあった気がして、どきどきした。こわかった。
社会的生命力に自信が持てないために生理的生命力までをもなかったことにしている人って、実はけっこういるんじゃないだろうか。少なくともこの物語の主人公はそうであっただろうし、ほかにもそういう人が何人も出てくる。そしてこの小説を読んでいる瞬間のわたしもそうだった。

 


この小説はまっさらの気持ちでバッターボックスに立つ感覚で読むと、かなりインコース攻めのピッチャーだなという印象を受けるのではないかと思う。とてもスリリングなおもしろさ。

同作家の小説を読んでいる人にとっては、「乳と卵」の第二弾のようでありながら、「すべて真夜中の恋人たち」の赤盤であろうという内容になっている。わたしにはそう感じられた。第一部で泣き笑いし、第二部からはこんなの待ってた! という展開に変わっていった。

この物語は冬子ではなく夏子の話ではあるのだけれど、やらかしの質が、考えすぎて滑ってしまうときのあの感じはまぎれもなく冬子の再来で、後半からは何度もぐわっとくるものがあった。つらくて悲しくて泣くんじゃなくて、過去の雑な共感、やっつけの自己肯定への反省の泣きを引き出される。若い頃に居場所を作れなかった自分のつらさが溢れだす。
他人への甘えかたがわからない人のコミュニケーション上の「やらかし」を書かせたら、やっぱりこの作家は最強だ。後ろにゾンビがいる志村けんに「志村うしろー!」とテレビの前で、心の中で、会場にいる人たちと同じ声を上げる感覚で「夏子、いま送信ボタン押しちゃだめーーー!」と、あああーーーっと、読みながらこちらが頭を抱えてしまうような、わかっているからこそそれを打ち消すためにやらずにはいられなかった失敗の「あの感じ」がリアルに再現される。
こんなふうにいろいろフラッシュバックするのだけど、抱きしめられている感じがするこの文章のやさしさは、なんだろう。何度も読みたくなる。

 

 

これから子どもの進学費用などがかかるところで、そこで乳房の改善にコストをかけたかった主人公の姉の、いっとき盛り上がる改善要望を否定しないやさしさ。人生を前に進めていくにあたって、義務とはまったく関係のないところにある目標。こういうのが必要と感じるときって、ある。あるの!
そしてその理由付けとして挙がる、海外ブランドのクッキーのような乳首でいいのだろうかという具体的かつパワフルな問いに、別にいいじゃないかと言わない主人公の耐性。なんというか、強さを感じた。

わたしは「生理的に無理」と同じくらい「女を捨てる」というフレーズもおそろしいと思ってきたので、姉の乳房問題をないがしろにしない主人公のような冷静さをもっていたいと思う。
この小説は「すべて真夜中の恋人たち」同様、これから何度も読むことになると思うけれど、まだ出たばかりの小説なので感想はこのくらいにしておきます。(そりゃ書きたいこと引用したいこと話したいことといったら、たくさんたくさんあるけれど!)

 

夏物語

夏物語

 

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