うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

The Yoga Sutras of Patanjali (English Edition) /Sri Sri Ravi Shankar 著

ここ半年ほど、英文のヨーガ・スートラ解説を読んでいます。

そのほうがしっくりくる理由を、以前からなんでかな・・・と思っているのですが、わたしが思う理由は以下の3つです。

 

1)日本の宗教観

2)サンスクリット漢訳仏教を経由した日本語の意味の普及

3)社会的思考から頭を切り離す必要性がある

 

1)日本の宗教観

もうこればっかりは民族の歴史。共通する意識が言語・言葉を生み出すので、共通意識として薄いものは薄いのです。ないもんは、ない。

ヨガの本を読んでいると、いくつか日本語だとスッと入れにくい概念があります。英文だと以下の語を用いて語られます。

  • bliss
  • enlightened
  • awaken
  • grace

わたしは日本の小学校の道徳の時間のノリとは違うものに対して「気づき」「おかげ(さま)」などの表現を当て込むことに抵抗があって、これは日本語の問題というよりも、『おしん』が大ヒットした小学生時代の記憶が起因しているように思います。

宗教観を排除した状態で慈悲と献身を説かれることにトラウマがあるのです。

 

「ほら、"おしん" はあんなに耐えているのだから、あなたもそうしなさい」っていう、あの暗黙の圧です。おしんの子役と同世代の人には特にダイレクトにこれがあると思うのだけど、どお?

 

 

2)漢訳仏教を経由した日本語の意味の普及

わかりやすい例を挙げると、わたしはサーマーディの漢訳語「三昧」の文字列を見ると、「中華三昧」というラーメンの袋を連想する世代です。

小学生の頃に母が「これはすごい」と言って原信でリピ買いしまくっていたのをおぼろげに覚えています。(原信というのは新潟県のスーパーです)

あれが発売された頃って、ちょっとしたフィーバーが起きてませんでした?

あれって、うちだけだったのかな・・・。

 

 

3)社会的思考から頭を切り離す必要性がある

ヨガの教えは心の中で起こることの原因を自分のなかに探し出すものですが、その範囲が人間関係への処世訓に及ぶ節もあります。

そもそも発祥地も文化も違うため、ナショナリティ、家族観、家父長制、世代・性差のような外部要因・社会的思考から離れて、意識を別次元に置かないと取り組めない節もあります。

わたしは各方面への配慮が求められる現在の日本語世界では、ヨーガ・スートラの解説ってむずかしいんじゃないかと思うことがあります。

人間関係への対処法と人間そのものの心の仕組みを説明した節が混在しているのが、ヨーガ・スートラです。

 

 

それはさておきシュリシュリさんの解説は刺さる

 

前にスワミ・サッチダーナンダさんの上記の本の紹介をしましたが、今日紹介するシュリシュリさんの説法は、より一般的な仕事をする社会人向けです。

人間関係の処世法と人間心理学がマッシュアップされ、漫談として完成されています。

 

こういう混ぜ方のうまさが見えやすいのが、ヨーガ・スートラの第1章33節で、こんな言いかたをされます。(わたしの日本語訳です)

わたしたちは苦しむ人に慈愛を持つべきだが、それは友情のようなものではない。

親しみや情けを向けても、友人のように接するのは違うよと。

 

こういうトーンで説明が進んでいきます。「寄り添う」という表現を多くの人が便利使いする昨今では冷たい説明に見えそうだけど、この本一冊を通して読むと、そうじゃない。そうじゃないんです。

 

 

組織人や子育て経験者にも、刺さりまくる

他にも、「こらしめの感情を含むものは思いやりではない」とか、その奥の心理まで含めた要約に鋭いものが頻繁に登場します。

 

第1章50節の解説で、こんなフレーズがばちんときます。

思いやりとは、人を犯人に仕立て上げて許すことではない。

心の中で仕立て上げている、その印象すら排除するのが「知恵」なんだよと。

 

ヨーガ・スートラは自分にとことん向き合うカウンセリング・ルームみたいな書物なのですが、シュリシュリさんは現代的な説明フレーズで、ばちっと要約してきます。

 

 

現代の日本語は配慮が広範囲すぎる

わたしは昨年、ChatGPTが運動神経的に責任を回避する日本語表現を素早く学んでいるのを見て、ChatGPTさんも大変だなと思いました。

少し前に「自分で自分の機嫌をとる」という表現について書きましたが、いまの日本語は、その言語の進化のしかた自体が、心を病みやすくする方向へ進んでいると感じています。

新しい自己責任論みたいな感じと言ったらわかるかしら。

 

そんなこんなで、わたしはヨガを学ぶときに感じる「日本語がほのめかすもの」が嫌いだったんですねぇ。なんでだろ~おなんでだろ~♪ と思っていたのですが、謎が解けました。

だけどいまは「DeepL」がある時代。数年前とはワケが違います。

結局 AI を使うんかい! と思われそうですが、こういう使い方こそが、ナマの脳みそと人工知能の良い掛け合わせだと思っています。

 

短いシンプルな語りの英文はそのまま読めるし、複数の if や may や and で行ったり来たりしてややこしい時は、「DeepL」で訳せば読めます。

▼譬え話や小ネタがおもしろいです。ヨガの小路きみまろ的です。