うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

センス・オブ・シェイム 恥の感覚  酒井順子 著

このご時世において、ずいぶんハッキリ書いたものだね!というすがすがしさのあるコラム集。
なかでも「中年とSNS」はリアルに身近な友人と話すようなことが書かれており、自慢話をしている人に「すご~い」「さっすが~」と合いの手的リアクションをするのはその人を褒められ中毒から抜けられなくする燃料投下であるという視点に、プロの自慢屋(エッセイスト)の凄みを感じます。あれはみんな意地悪でやってるのか…(←すぐ信じる人)。


普段限られた範囲の人としか接しない生活をしているわたしにとって、読んでいるとたいへん社会勉強になる観察レポート。うわー、いまそういうことになってるの?! という珍現象もしっかり分解・説明されています。

なかでも序盤で展開される平安時代のさまざまな古代エッセイストの恥の感覚の説明がとにかくおもしろく、清少納言党のわたしは食い入るように読んでしまいました。自分がめちゃくちゃ素直な自慢人間だなぁと思えてくる(もちろん、だから嫌われるという見かたもできる)。吉田兼好党である著者から見た視点がおもしろく、紫式部くらいしたたかでないと渡っていけない日本の「自慢」のバランスの読み方にうなる。
そしてこれに近いことをいまのヤングはデジタル・ネイティブとして身に着けているのだよなぁ、でも家族の仲良しプレゼンは所かまわずやったりするのね…というのを身近な平成生まれと接しながら感じる日々だったので、「そうか!」と思うことばかりでした。
ほかにも絶妙なタイミングで親鸞歎異抄文体を挟んできたりして、うまい…。


ムダ毛についての考察も興味深く読みました。

 この「本当は毛が生えている・いた」という事実を、人は忘れることができるのでしょうか。「私の祖先は猿じゃないんです」みたいな顔でツルッと生きている女性はなぜ、堂々としていられるのか。
 それは人間の、「今、見えているものだけを信じる」という性質のせいなのでしょう。
(「ムダ毛処理時間のムダさ」より)

ああ、そう。わたしは堂々としていられる側。思い起こせばあれはインド、今年の初夏。毎日かるく40度を越えてくる灼熱のなか連れて行ってもらった滝壺。水に浸けたり出したりしているわたしのスネを見ながら、インド人のRさんが「ここに、毛、というか毛穴すらないのは、どうしたんだ? 病気なのか?」と不思議がっておられたっけ。「ノー・ヘアーにしました。エレクトリカルのテクノロジーによって」と答えたらキョトンとしておられた、あの濃ゆい顔。そんなメモリーが甦りました。滝壺のなかのメダカを見ながら「魚がいる」と言ったら「魚が食べたいのか?(菜食のみは苦痛か?)」と質問されたのと同じ流れで訊かれました。ナチュラルなライフを愛しハーブをたしなむ、とてもやさしい人でした
こんなにツルツルになるまでテクノロジーで処理するって、さぞかし異常な、文明漬けの人間に見えたんだろうな…。わたしにそのハーブの常用が異常に見えていたように。

 

──話が大幅に横にそれましたね。
この本には、今後はそれ(脱毛)を被介護のために、介護を受ける状況に備えてやることになるだろうという未来予測まで書かれていて、日本人ならやりかねんと思いながら読みました。
ナウな日本人の恥の概念がおもしろく解析されていました。

センス・オブ・シェイム 恥の感覚

センス・オブ・シェイム 恥の感覚