うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「名」と「恥」の文化 森三樹三郎 著


儒教は「名教」といわれることもあるそうで、中国人の、そしてその教えを道徳教育のなかで引継いできた日本人の中にある「名」への意識について考えてみるきっかけになる本です。
日本人には、基本的に輪廻思想は染みついていない人が多いんじゃないかな。ヨガ仲間の外国人と話すとここを「どういう感じなん?」と問われたりするのですが、「そこはおおむね、中国人と一緒。基本、ない人が多い」と答えています。

 このように千載の後に名を残すということは、神なく来世のない儒教にとって、ただ一つ残された救いへの道であった。儒教がその別名を「名教」とよばれるようになったのも、ここにその理由がある。まことに儒教は、名に救いを求める宗教であった。
(第六章 中国人の宗教意識 二 無神論と人生の幸福 より)



 結局、中国で罪よりも恥の観念が優位をしめたのは、キリスト教のような有神論をもたなかったからである。神が存在しないのであるから、行為の善悪を決定するものは、「神の罰」ではなくて「世間の制裁」であり、しかも刑罰による制裁ではなくて「道義による非難」であった。道義的な非難に対する恐れ、それは恥にほかならない。
(第六章 中国人の宗教意識 四 世界は名と恥の文化に向かうのであろうか より)

こういう感じは、日本人が有神論だと思っている人に対して、どうにも説明が難しいところ。「地獄教育は地獄教育。八百万の神八百万の神。で、現世利益主義なの」ってのはなかなか説明が難しい。
車のいない横断歩道で赤信号で止まり、青になったら手を上げて渡っている子どもを見て自分を恥じた。というイスラームの人に「でしょぉ。あれ、すごいですよねぇ。わたしも、どうなってんだかわからないんですけど」としか答えられない。この感じはとても説明が難しい。第三者の目を内在した真面目さというものを、子どもの頃から持っているんですよね。わたしたち。


インドの仏教が中国ではこうなる、という話もおもしろくて…

 インド伝来の仏教で戒律の対象となっていたものは、色・声・香・味・触にかんする欲望であり、これを五欲とよんでいた。ところが、明代の一如があらわした『三蔵法数』では、財・色・飲欲・名欲・睡眠欲を五欲としてあげている。
(第ニ章 名誉・名声としての名 ニ 老荘および仏教の無名の思想/五欲のうちに名欲を加える より)

明時代は、1368年〜1644年。中国では、こんな歴史が展開していたのかぁ。


尹文子という書物にある名分論も、すごく興味深いものでした。
その書物のはじめで、こんな定義があるそうです。

名には三種類がある。(一)方円白黒など、物の形状の名。(ニ)善悪貴賤など、世間的な評価をあらわす名。(三)賢愚愛憎など、人物の性格を示す名。
分とは、これらの名に対して、われわれが示す反応のことである。たとえば「白を好み、黒を憎む」という場合、白・黒は名であり、好む・憎むは分である。
「賢者に親しみ、愚者を遠ざける」という場合、賢者・愚者は名であり、親しむ・遠ざけるは分である。
「善を賞し、悪を罰する」という場合、善・悪は名であり、賞・罰はその分である。


 ここまでの定義によると、名は客体としてあたえられた事物や状態のことであり、分はこれに対する主体の態度や行動のことである。いいかえれば、名は客体に属し、分は主体に属する。そこで尹文子は続けていう。


 名は彼に属すものであり、分は我に属すものである。白黒や善悪は彼の名であり、これに対する愛憎や賞罰は我の分である。


 したがって名分を正すということは、あたえられた事態(名)に対して、われわれがこれにふさわしい対処(分)をすることである。
(第一章 言語・文字としての名 一 言語・文字のもつ神秘力 尹文子の名分論 より)

ここ、はじめのほうはまるでサーンキヤ・カーリカーの冒頭「苦しみは三種類ある」みたいでおおっ、と思ったのですが、そのあとの客体主体の論がおもしろい。



以下の部分は、なんというか日本人の思考力の脆さにつながる部分でもあるかもなぁ。と思いながら読みました。

日本人の名誉感の根底には武士の伝統があるのに対して、中国人の場合は文人的で、書生的な色彩が強い。(「書生」に「スカラー」のルビ)
(第五章 恥と罪 ニ 雪辱と報復 ── 中国と日本の違い 日本人の恥と中国人の恥との内容の違い より)

この本を終盤まで読むと、忠臣蔵を毎年のように年末にやっいたことが急におそろしく感じられてきます。


漢字も言語も道徳観も中国から受け継ぎつつ、ここは日本色、という境界がジワジワ見えてくる本です。
これはバガヴァッド・ギーターの訳を読みながら気づいたことなのですが「無為」という文字を見て、多くの人が老子よりも孔子の思想で理解をするのが今の日本語の言語感覚。
わたしはこの本を読んで、老子の思想にあらためて惹かれはじめています。