「マントラは聖音だから正しい発音で唱えないと意味がない」
これは模範的な回答あるいは間違いを避けた回答としては正しいのですが、今日はなぜそれがそうなのか(祈りであり呪術であるから)というところをひとまず置いたまま、「書いて唱えることから見えたこと」について書きます。
わたしがどうしてマントラ暗唱とデーヴァナーガリーの読み書きをセットで練習するようになったかの、長い長い長ぁーーーい話を書きます。
「正しい発音で」というのとは少しだけ方向のずれる話ですが、「正しさ」にこだわることそのものについて考えるというのも重要なことだと思うので、その点についてもわたしなりに考えを書きます。
はじめは耳コピから
わたしがそれまで耳コピで唱えていたマントラやバガヴァッド・ギーターを、書きながらぶつぶつ唱えるようになったのは、ほんのここ数年のことです。法則を推測しながら文字を読む練習に移行してからは、忘れないように毎日ちびちび筋トレのようにやっています。わたしがこの作業で感じているメリットは、ずばりこれです。
視覚で意味を探しにいく思考が、
聴覚で意味を探しにいく思考に変わる。
デーヴァナーガリー(ヒンディでも同じ文字を使います)は表音文字です。ハングルもずっと見ていると法則性が見えてくるところが似ているので、ハングルの読み書きができる人にはわかりやすい話かもしれません。
日々の思考の煩雑さに気づく
日本語はひがらな・カタカナは表音文字ですが、漢字は表意文字です。日常で思考をするときに使う言葉に漢字を含むわたしの頭のなかは、とにかく複雑になりやすい。マントラはその状態をスッキリさせてくれます。
肩甲骨を、健康骨だと思っていた
わたしはこういう勘違いが多く、自分だけ間違ったまま理解していることに後になって気づいたことがたくさんあります。「時事放談」はもちろん「爺放談」だと思っていました。子どもの頃にお爺さんが楽しみに見ていたので、当然のようにそう思っていました。
これは日常会話を音で認識してから頭の中で漢字を探しにいくために起こることですが、ほかの人があたりまえのように常識としいることも、わたしはできない。これまでにそういうことがたくさんありました。脳内変換が多数派と違うためにやってしまう「空気の読めない人の行動」を多くやらかしてきました。わたしはいまだにこの失敗がたまにあります。
こういうのはいまは病名をつけて語られたりもするようですが、わたしの感覚では認識の順番として採用している変換コードが一メジャーではない感じ。え。うちのビデオ、VHSじゃなくてベータなの? というような。(今日もまたヤングを置き去りにしてしまいました。ごめんなさい)
文字通りの音だから安心して没入できる
デーヴァナーガリーのすごいところは、ひらがなや英語のようなほかの表音文字とは違い、ほぼ100%近く文字通りの音でありつつ、音の種類がめちゃくちゃたくさんあって、文字の接続の自由度が高くおもしろいことです。めっちゃ色数の多いレゴブロックのような文字です。
英語も表音文字ではありますが、「エドワード」も「イーメール」も「E」ではじまります。エーメールではない。こういう、この場合はこうという知識を要するケースがたくさんあるので、文字を覚えただけで100%に近く発音が当たるということはありません。
目に入るものと音が同じで、唱える行為によって意味が生じる
このことに気づいたときに、すごく驚きました。日常の思考の無駄な複雑さに気づきました。音から拾ったあとの理解の選択ミスで意味が変わるってしんどい。「いいです」は、使うほうは便利だけど相手のことを考えていない用法の最たるものかもしれません。
わたしはこの思考の複雑さを理解していないことによる失敗やアウェイ感で苦しんできたんだなということに、デーヴァナーガリーの読み書きを始めてから気がつきました。安心して没入できるのは文字通りの音だからだ! ということに気がついてからは、書き写しながら唱える作業が自分にとってのセラピーに変わりました。
ひとまず思考だけでもそこから抜け出してくつろぐアイデアとして、わたしにはマントラ・チャンティングに救われています。「救われています」という言いかたは普段は慎重に避けるのですが、これに関してはきっぱり言います。救われています。
昔の教えかたや記述は、それはその時代の身体感覚の歴史
いまは音も映像も入手しやすくなり正しい発音教材を得やすい世の中になっていますが、昭和58年に出版されたガンディー(ガンジー)の自伝の文庫本を読むと「バクティ」は「バクチ」、「ジニャーニャ(ギャーナ)」は「ジナナ」と記載されています。
祖母が「ピンク・レディ」を「ぴんくれでー」と発音していた時代のカタカナ表音文字です。祖母が生きているうちにJリーグが発足していれば、カズのいたチームは「よみうりべるでー」であったことでしょう。
そんなことを思うので、昔の人が日常にない発音をがんばってカタカナに起こして共有しようとした涙ぐましさに対して「聖音なのだから正しい発音で」という現代テクノロジーありきの正論で語るのは、どうも気が進みません。昔から続いている教室でヨガを習っている人が「わたしが習ったのは、古い発音で…」というときに、まあそれはそれとして行為は行為で実際祈っているわけなのだ。と。
日本語にない音にチャレンジする、唇と舌の筋トレ
外国語の発音の筋トレって、日本人の誰かが開拓してくれているのを見て、おお! 正しさを追求するとここまで再現できるのかと思ってがんばってみる。わたしの場合はずっとそういうものでした。みなさんはどうですか?
わたしは30代の頃に中田英寿選手のイタリア語でのインタビューを見て(今日はサッカーの喩えばかりですね)、意思を微細に共有するために音の精度を高める努力をする人ってここまでするんだなと思った記憶があって、今でもその感覚をよく思い出します。
なので「わたしも、がんばったらできるかも」と思う以前のところで「正しく習得する方法」にこだわる気持ちは、それはそれで向き合ったほうがよいトピックです。絶対に頑張りぬく前提で最高の発音の先生を追い求めるならまだしも、ふわっとしたたま正しさにこだわる気持ちは、実は正しくないものを断罪したい気持ちを含んでいる状況かもしれない。
でも発音って「間違いを指摘されたくない」というマインドがいちばんの妨害要素なんですよね…。間違いって確定できないし。出した音が、唇と舌がその音を作れていないだけ。外国人で「つつじが丘」をノーミスで発音できる人ってめちゃくちゃ少ないと思うのですが、そこを詰めてくる日本人がいたら、いじわるすぎますよね。それを自分自身に対してやるようなことは、しなくていい。
別の言語システムを入れると、思考のプロセスに変化が起こる
なにかかを食べて delicious とか tasty とか yummy と感じたときに「おいしい」「美味しい」「うまい」「旨い」「美味い」「ウマい」「んまー!」どれが一番近いかな…ということをものすごい速さでやっているのが日本語の日常的な思考です。言葉や文字や表情を使って他者に見せる思考以前に、なんか分類作業をしている。
その要素がぐっと減ったものを暗唱したり書いたりする行為は、もうそれだけで普段の複雑さから比較すると瞑想状態にかなり近づいている。(当社比。わたしのあたまのなか調べ)
こういう経験が続いていくと、だんだん思考のノイズを捨てやすくなってきて、心の中で自分を責めているときも、逆に自分で自分をなぐさめているときも、そしてなによりこれが重要なのですが「漠然と世界に対して言い訳をしているとき」に、自分がどんな言語を選ぼうとしているかがわかるようになってきます。
その選ぼうとする行為の中に、自分が心根のところでどうありたいと思っているかを知るヒントがあります。自分のことって、ノイズまみれで実のところ、よくわからないものです。
ヨガから派生する学びにはさまざまな方向がありますが、今日は表意文字コミュニケーション世界の窮屈さから少しでも解放される、そういう感覚を伝えたくて書きました。
ちなみに書きながら唱えている時間は、アーサナの練習でいうとスーリヤ・ナマスカーラBとすごく似ていると感じます。少しでも前後のことを考えると状況をつかみすぎてしまう、プチ・ゲシュタルト崩壊が起こる感じがすごくよく似ていると感じます。