うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

表意文字的コミュニケーションと思考の癖のこと

先日、おひさしぶりに連絡を取り合ったかたが、興味深いエピソードを教えてくれました。
少し前にこのブログに書いた映画の話をたまたま知人の方とされたそうで、その映画は10年以上前の、この映画です。


この映画を観て、知人の方がこんな話をしてくださったそうです。

映画の字幕では balance を調和と訳してたけど、違和感があった。調和なら harmony では?

とても興味深い投げかけです。これは終盤のセリフのことかな、と思いました。
balance という言葉を主人公に向けて使う人物それぞれの考え方をどう捉えるかが、この映画の大きな見どころだから。

 

そしてこの雑談は、日本語話者の感覚で「調和」の「調」と「和」のどちらに重きを置くかを確認するような話です。
しかも、映画の中でのこのやり取りは、長い長い原作エッセイを要約するために工夫された、映画版解釈の微妙なところでもあり、うまく誤魔化したなというところでもあり、気持ち悪いところでもある。この気持ち悪さ、キャッチしちゃうよね!


日本語話者のわたしたちは、表音文字ではなく表意文字の世界で生きている。
だから、漢字を見ると思考の逆引きがはたらいて「harmonyでは?」という疑問がわく。

 

もともと原作は英語です。原作者や脚本家が英語で思考して表現されたものを、訳した後の日本語の感覚で思考の主体を引き取って、元の表現にツッコミを入れる。
「わたしなら、この場面の balance は調和よりも○○と訳すほうがしっくりくるのだけどなぁ」という話になるのが本来ならば筋なのにね。
なにげないコミュニケーションや挙動の中で、こんなふうにいつの間にか設定が変換されていることって、よくあることです。そういうところに、思考の潜在的な傾向ってや思想が出る。

 

これと同じようなことに、かつてインドでヨガをしながら気づいたことがあります。
片脚で立つポーズの練習中に耳にしたフレーズに、ある時、おおっ。となりました。
親方による英語のクラスでは、このような言葉が投げかけられます。

 

    find a balance

 

わたしが英語をよく知らないだけの話ではあるのですが、バランスをとることを「Find」と言うのか! と。
そのことについて考えながら、自分が日常での人間関係の中で「バランスをとる=和への落とし所を選択する=我慢する」というイメージ連鎖をしがちであること、そのような条件づけの癖があることに気がつきました。

 


この時のことは、2009年の旅行記のなかで書いています。

昔の自分の文章は恥ずかしいのでサッとしか読まないのですが、11年前からオバチャンと自称している自分に、まるでエリザベス・ギルバートみたいじゃないか! と激しくツッコミたい。
食べて、祈って、恋をして』新装版の、著者による「10年後のまえがき」に、当時の自分はまだ30代なのに自分を老人扱いしていると書いてあるのです。自分もまんまとそれをしていて、なんだか笑えてきました。
もうね、この新装版ほんといいから。ぜひお読みになって。おばちゃまからのお願いよ♡(←オバチャンの進化形)

 

 

表意文字での思考については、以下の「別の言語システムを入れると、思考のプロセスに変化が起こる」にも書いています。