うちこのヨガ日記

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ヒンドゥー教 ― インドの聖と俗 森本達雄 著

今年読んだ「インドの顔(世界の生活歴史)」で知ったラーム・モーハン・ローイについてさらに知りたくなり、この本を読みました。
インドの昔の風習に、未亡人となった女性(寡婦)が夫の後を追って火葬時に焼身自殺をする「サティー」というものがあり、ラーム・モーハン・ローイはその制度を禁止するために活動した人物です。このことを知るにはまずインドの女性の身分について歴史を知る必要があるので、そこをいくつか抜き出して紹介します。

この本によく出てくる「マヌ法典」(参考)というのはインドの古い書物で、社会と人生のありかたや、さまざまな規定が書かれています。

入門式を受けるまでの幼児と、それを受ける資格をもたない、言いかえると、四住期の人生設計の枠内にくみこまれていない婦女子については、法典はその身分をどのように規定するのだろうか。ひとことで言うと、いずれの身分も、出生のヴァルナとは関係なく「シュードラ(隷民)」と同等視された。というのは、幼児も女性もともにヴェーダの供犠や学習から除外されていたからである。
(中略)
女性は、生来的に「宗教上のシュードラ」とみなされたため、浄めの一連の通過儀礼(そのいくつかは男女ともに受ける)のときにも、聖句(マントラ)を唱えることが禁じられていた(『マヌ法典』2.66)。
(192ページ 女性は宗教上のシュードラ より)

 寡婦はまた、わが子を除くすべての人たちから不吉とみなされたため、結婚式や祖先祭などの家庭の行事にも参加を認められず、一日一回の食事も独りで粗食にあまんじなければならなかった。しかも妻たるもの、夫なきあとも実家に出もどることはできなかったばかりか、彼女の一挙手一投足が、つねに合同家族(すなわち夫の身内たち)の冷たい監視の目にさらされていなければならなかった。ときには、口さがない家の忠僕までが彼女の行動に猜疑の目を向けるのだった。というのは、寡婦が課せられたきびしい服喪の掟を破ると、黄泉の国の夫の霊魂が平安をみだされると信じられていたからである。
 さらに寡婦の掟は、それらの時代の幼児婚の風習をいっそう悲劇的にした。この時代、娘の配偶者を初潮以前に決めるのが、親の宗教的義務と考えられていた。そのため、幼い妻が初潮を迎え、事実上の結婚をする前に夫となるべき男性が亡くなったときも、少女は寡婦とみなされた。もちろん彼女たちは「アクシャター(無垢の処女、すなわち生娘)」として再婚を認められてはいたが、男たちからは縁起をかついで敬遠されたため、処女のまま「未婚の寡婦」として生涯を終えるケースがかなりあったらしい。1948年インド独立直後におこなわれた調査でも、寡婦の年齢は8歳から54歳におよび、そのうち20.16パーセントであった。ただし独立後は、1978年の「幼児婚禁止法」の改正による結婚年齢の引き上げ(男子21歳以上、女子18歳以上)や、女性の教育水準の向上などによって、状況は大きく変わりつつあることは言うまでもない。
(195ページ 寡婦は生ける屍 より)

とりわけ七世紀前半から始まったイスラーム勢力の侵寇にたいして守勢にまわったヒンドゥーが、法典に示された宗教的・社会的規範を、ひたすら自己のアイデンティティの拠りどころとして、ますます法典への信奉を強化し、貝のように宗教的独善の殻に閉じこもったことは、特筆されなければならない。
 くわえて、寡婦の殉死によって夫婦は天界に生まれかわり、夫の祖先三代の罪が消滅すると信じられていたため、いやがる寡婦を親族がよってたかって説得したり、麻薬を飲ませ、むりやり火中に追いやるといった殺人的行為までが風靡していたという。
 十九世紀初め、こうしたサティーの蛮習の廃止に立ちあがり、ついにはその法制化に成功したのは、「近代インドの父」と呼ばれるラーム・モーハン・ローイ(ラムモホン・ライ)である。彼は青年時代、兄の死後サティーを志願した若い義姉(あね)に、その非人道的な行為を思いとどまらせようと説得したが聞きいれられなかった。「しかし」と、大著『ラージャ・ラーム・モーハン・ローイの生涯と書簡』の著者S・D・コレットは、貞女の鑑(かがみ)たらんとする女たちの残酷物語の実態をこのように活写している──「彼女が火に触れたとき、彼女は身をわななかせ、燃えさかる薪の山から逃れようとした。しかし、親族や僧侶たちが竹の棒をもって、むりやり彼女を火中に追いやり、焼き殺してしまったのである。そのあいだじゅう、彼女の叫喚をかき消すためのように、太鼓が打ち鳴らされ、シンバルが大きな音を響かせていた」と。愛する義姉の生命を救うことのできなかったローイは、深い悲しみと慙愧(ざんき)の念にさいなまれ、苦悶した。そして、なんとしてもこの恐るべき悪習をヒンドゥー社会から抹消するまでは闘い抜こうと決意したのである。
(197ページ サティーと禁止運動 より)

知らない人は驚いてしまうと思うのですが、ラーム・モーハン・ローイ(1772~1833年)の活動していた時代は、日本でいうと江戸時代末期。自分の兄のお嫁さんが自分の親や親戚によって殺されるというのは想像するだけで地獄絵図です。

 


男性の場合は入門式から始まってさまざまな儀式があるということが書かれていましたが、その紹介のなかにも興味深いものがありました。

(五)命名式。出産十日(または十二日)目に、犠牲の火が焚かれ、たいていは司祭か占星術師の選んだ名前を父が読みあげる、名付けの式がおこなわれる。おもしろいことに、このときは嫉妬や敵意をいだく者の呪詛を避けるために実名は伏せ、仮名を公表するといった手の込んだ風習もあった。実名は後日(嬰児が無事成長するのを見届けてから)、食い初め式の日に初めて披露する。この風習は、いまも一部に残っていると聞く。
 また、現在もその名残りを見るが、ヒンドゥーは名前を個人の貴重な財産とみなし、濫用されると、その威力が弱まると考えたため、人々は互いの名を呼び合わず、たとえば訪問者はその家の主人を「バブー(ご主人)」とか、「バブジージーは通常の敬称で、<さん>の意)」と呼び、弟子は師を「グルジー」とか「スヴァーミージー」といったぐあいに敬称だけを用い、西洋式に名前で呼びかけるのをさしひかえる。
(189ページ 入門式までの通過儀礼 より)

バガヴァッド・ギーターにも嫉妬や敵意をいだく者についての詩があってたまに「おおっ」となるのですが、呪詛を避けるために仮名でという理由に驚きます。

 


ほかにも、身分やカーストと収入と職務の多様性について知るのにとてもわかりやすく書かれている事例がありました。

 おもしろいのは、ヒンドゥー社会では、バラモンクシャトリヤなどの上流階級だけではなく、低カーストの裕福な商人の家でも、しばしばバラモンの料理人が雇われているのを見かけることである。これは一般にカーストに敏感なヒンドゥーが、自分よりも低いカーストの料理人の食物を口にすることを嫌うため、バラモンの料理人を雇っておけば、どんな身分の来客にも対応できるとの配慮からである。
(133ページ バラモンの処世術 より)

食事については、ほんとうにいろいろあるようで。外国人旅行者には細かいところまでわからないのですが、そういえばわたしはインド人女性と一緒に食事をしたことがないかも…。食事の場に女性はいても、一緒に食べた記憶が思い出せない。レストランでは見かけますが。

 

 

後期ヴェーダ時代のバラモンたちが身分制度を固定化させようとした巧妙な流れの解説には、そこまでやるか…ということが書かれていました。

 支配者の定めた政治や社会制度が、宗教の権威をかりて神の名のもとに許可されると、それは神聖にして侵すべからざる神の法として絶対権を獲得することになる。後期ヴェーダ時代のバラモンたちは、巧みにこれをやってのけたのである。彼らはヴァルナ制度を、人間の定めた社会制度ではなく神の掟であることを、創造のそもそもの起源にまでさかのぼって説き明かそうとした。ヒンドゥー教の宇宙創造神話として知られる『リグ・ヴェーダ』の「原人讃歌」(10.90.12)によると、神々が原人プルシャを犠牲獣(祭獣)として宇宙創造の祭式をおこなったとき、その口はバラモンに、両腕は王族に、両腿はヴァイシャになり、両足からシュードラが生まれたという。こうしてバラモンの優位は絶対不動のものとなり、四姓の序列が神の名によって正当化された。ただし、この讃歌はかなり後代に加えられたもののようである。
 ついでながら、ここで思い出すのは、生涯、不可触民制の排除に普請したガンディーが、社会主義の理想について語ったつぎの言葉である。ここでガンディーは、カーストの序列、とりわけバラモンの絶対優位を権威づける論拠とされてきた『リグ・ヴェーダ』の「原人讃歌」に真っ向から異議申し立てをおこなったのである──


……わたしの知るかぎりでは、社会主義のもとでは、社会の構成員はすべて平等である。すなわち一人として身分の賤しい者はなく、一人として身分の高い者はいない。人の体のなかで、頭は体のいちばん上にあるからといって貴くはなく、足の裏は地に触れるからといって賤しくはない。肢体はみなが平等であるように、社会の構成メンバーも平等である。これが社会主義である。
(128ページ バラモンの威光は神々をも凌駕する より)(……以降はガンジーの言葉)

 リグ・ヴェーダにもかなり後代に加えられた節って、あるんだ…。かなり後代って、いつくらいなんだろ。

 


わたしは今年リシケシへ行ったときに、おなじオレンジ色の服を着た人でも、お金の要求の仕方がさまざまだな…と思ったのですが、あらためてサードゥについてこの本で学びました。

たしかに『マヌ法典』は、宗教的な清浄な生き方を説くにあたり、家住期にあっては、日々最善を尽くして、供犠をおこなうことで神々に、ヴェーダを学習することでリシ(大仙)に、息子をもうけることで祖先の霊にと、人間が生来負うている三つの恩義に報いることを第一の義務(つとめ)としている。そして法典は、これら三つの負債(リナ)の返済を果たさずして、心をやみくもに解脱に向けることを忘恩行為として戒めている(6.35~37)。
 しかしながらいっぽう、人の生命(いのち)の短きことを思えば、そんな悠長なことは言っておられぬと、人生の階梯を一段ずつ登ることを嫌い、あるいは無視して、学生期を終えるとすぐ、あるいは家住期の途中から世俗に生きる住期を一足とびに跳び越して林住・遊行的な生活に入り、解脱に専念しようと志す者たちが現われた。そしてその列はいまなお後をたたない。
 彼らは一般にサードゥ(女性はサードゥヴィー。以下の〔 〕内も同様)とかグル〔グルヴィー〕、シヴァ派ではサンニャーシン〔サンニャーシニー〕、ヨーギン〔ヨーギニー〕、ヴァイシュナヴァ派ではヴァイラーギ〔ヴァイラーギニー〕など、さまざまな呼称で呼ばれているが、実際には、一般にこれらの呼称の厳密な定義の相違はほとんど意識されておらず、いずれも「世俗を捨てた出家苦行者」というほどの意味で、同義語として用いられているようである。したがって、一人の行者がサンニャーシンと呼ばれることもヨーギンと呼ばれることもしばしばで、ヨーガ哲学について満足な知識をもたず、ヨーガの実習を積んだことのないヨーギンが闊歩することも珍しくはない(以下、こうした行者たちを「サードゥ」というもっとも一般的な名称で呼ぶことにする)。
(252ページ 自主的な現世放棄者 より)

ババとサードゥは同じなのかな…。わたしは話してもよくわからないんですよね…。強気のHelp請求にはよく遭いかけるのですが(経験談)。

 

 厳格なサードゥと反社会的なサードゥについても紹介されていました。

このようにサードゥの生き方は、ヒンドゥーの社会慣習をいっそう堅固にデフォルメする者から、それらのいっさいを無視・逸脱する者まで多様である。
 さて、そうした両極端のひとつは、シャンカラと並び称される中世インドの代表的な哲学者ラーマーヌジャ(1017~1137)を祖とし、ヴィシュヌ神を信奉する、いわゆるヴァイシュナヴァの一派に属するサードゥたちで、彼らはことさらに厳格な食事の掟をもつことで知られていた。すなわち彼らは、菜食主義を厳守し、食事はすべて自分の手で調理する。しかもそれを独り人目をしのんで食べなければならなかった。食事をしているところを他人に見られると、食べ物はすべて廃棄し、土中に埋めるよう定められていた。また食事のときには、木綿ではなく、絹か毛繊物の衣類を身につけなければならなかった。
 いっぽう、娑婆(俗世界)の掟にいっさいとらわれることを嫌ったサードゥのなかには、先に述べたように、魚・羊・豚にはじまり、蛇やサソリ、はては牛肉まで、俗人すらほとんど口にしない物まで食べる者もいた。なかでもアゴール派と呼ばれる、タントラ教のカーパリカ(頭蓋骨を携えるの意)に属するサードゥたちは、その破戒的行為によって悪名をはせた。「アゴール」というのは、字義的には「ゴーラ(恐怖)」という語に否定の「ア(否・不)」を付したもので、シヴァ神の五つの顔(特徴)の一つで「恐れをいだかせないもの」の意であるが、同時にそれは、シヴァ神のすさまじい性や黒い肌色から連想される「恐ろしいもの」をも意味するようになったらしい。アゴール派の「アゴール」はもちろん後者の意で、アゴーリー(アゴール派の行者)たちは、彼らの常軌を逸した不気味な行動によって世から恐れられ、敬遠されていた。
(262ページ 菜食を恥じるサードゥと肉食をも恥じぬサードゥ より)

後者は完全に反社会勢力の人たちって感じがするのだけど聖者の格好をしてるのだろうな…。

 

今さらながら、女神の呼び名についてもこの本の以下の説明で理解がすっきりしました。

シヴァ神には、破壊神という暗い側面と、先述したリンガに象徴されるような生殖と生産を司る恵の神という明るい側面とがあり、ドゥルガーとカーリーは夫シヴァの前者の側面の、パールヴァティーは後者の側面の妃である。あるいはドゥルガーシヴァ神の数多の妃のなかでもとりわけ優美で献身的なヒマラヤの娘パールヴァティーと、カーリーの中間的存在とする見方もある。そして、その数、数百にものぼるといわれるシヴァの妃たちは、最終的には一つのマハーデヴィ(大女神)に帰せられている。このように、ヒンドゥー神話の神々は、多くの異名をもち、一見、神話を必要以上に煩雑に、混沌とさせているように思われるが、それは、それぞれの神や女神たちの多面的な性格や能力を個別に強調するための表現の多様性によるものである。信者は同じ一つの神を、それぞれの必要に応じて異なった名称と姿で拝むのである。
(47ページ すさまじい神話の女神カーリー より)

かねてより、なんとなくヤヌスの鏡みたいだなと思っていたのですが、違った。

 

そんなこんなで、インドの歴史は目を覆いたくなることばかり。旅行者だからインドが好きと思っていられるけれど、インド人女性として生まれていたらどうだったかな…。
そしてそうは言っても、わたしはインド思想にこれからも惹かれ続ける。抜けられないものを見出してしまっています。その理由を、こんなに完結に書かれてたまるかと思うほどすばらしい文章が終盤にありました。

この世への恨みつらみ、未練は言いだしたらきりがない。それなればこそ彼らは。来世を切望するのかもしれない。自分は今生にあっては、神を信じ、人にも動物にもあれこれの親切や善行をつんできたのだから、いま死んでも天国に行けるだろうし、こんど生まれてくるときには、すくなくとも今生よりは幸多い人生を送れるだろうと、彼らは信じて疑わない。ここでは輪廻と業は完全に不可分・一体のものと考えられているのである。この意味では、輪廻転生はヒンドゥーにとっては、部外者が考えるような退嬰的な諦観思想ではなく、むしろ来世を待望する未来思考といえるかもしれない。
(326ページ ヒンドゥー教にあえて教義を求めれば より)

インドの人のポジティブさって、なんか独特なんですよね…。自分が幸せになろうとして、なにが悪い!みたいな強引さもありつつ、徳も積もうとするから意外とグイグイこない。なにがしたいのかわからないことがある。そして感じるのはまさにここに書かれている、「未来思考」の力だったりする。


日本にいると多くの人が過去の振り返りと未来の心配ばかりしているけれど、わたしはいつでもインド人のように思考したい。わたしは10年ほど前からこういう気持ちが自分の中に強くあったのだけど、最後に引用した部分を読んだときにこれだと思いました。

 

ヒンドゥー教 インドの聖と俗 (中公新書)

ヒンドゥー教 インドの聖と俗 (中公新書)