この本は2018年の夏に読み終えたのですが、あまりにも衝撃的な内容のため、その後ガンジーやインドに関する別の本を読んだりしながらショックを散らしていきました。
当時の幼児婚と妻に対する対応のひどさは、以下の本を読むことでやり場のない火種を抑えることができました。
インド独立運動が広まっていく時代の空気、それを疎ましく思う権威側の感覚や市民の感覚は、このミステリー小説がとても参考になりました。
わたしはこれらの本に理解を助けてもらうことで、やっとガンジーの思想の根っこに迫った感想に絞り込むことができました。そのくらい濃厚な自伝で、ガンジー本人が「本気で語らなければ意味が無い」と宣言したうえで、あまりにも赤裸々に性欲のありようから差別感情まで記録しています。
インドの独立は1947年(昭和22年)で、よくよく考えると想像以上に最近のことです。独立前のインドの文盲率は90%を越えていたと注釈にあり、いまの進んだインドを思うと想像もできないスピードで近代化しています。この伝記を読むとそのスピードに驚きます。
わたしにとってガンジーは世界史の教科書に載っていた人だし映画化もされていたし、それはそれは昔の偉人と思っていたのですが、そんなに昔ではない。清浄と禁欲を心の支えにしながらあんなにも多くの人々に伝染させていったことは、あらためて考えてみても、やはり奇跡のようにしか感じられません。でも、現実。あの人は動いたのでした。どんどん自分に負荷をかけていきながら、それをやったのでした。
ガンジーにとっては、禁欲は肉体の禁欲ばかりではなかった。食事、感情、言葉の節制をはじめ、憎悪、憤怒、暴力、不実など、思想、言葉、行為の抑制を意味し、これを三重の純潔と呼んだ。(注釈の第五部より)
そんなこと可能なのかと思うけれども、もちろんはじめは不可能で、人生を通して可能にしていったんですよね…。この自伝は最初の不可能っぷりの吐露から始まるので、なんというか、読めます。読まされます。
ご両親やこの時代の前の時代を築いた偉人の影響もうかがい知ることができます。ご両親はご自身の信仰する以外の宗派のお寺にもお参りをしたことや、ジャイナ教のお坊さんやイスラム教徒、パーシー教徒と父親の交流を見ていた様子が「7.宗教をかいまみる」に書かれていました。
以下の発言の出だしはまるでスワミ・ヴィヴェーカーナンダのようでもあります。
あらゆる生命を持つものを同一視することは、自己浄化なしには不可能である。自己浄化なしに守られた非殺生の法則は、虚しい夢にとどまってしまわなければならない。神は、心の清らかでない者には、けっして実現されないだろう。だから、自己浄化は、生活のすべての歩みのなかの浄化を意味するものでなくてはならない。また、浄化は、非常に伝染しやすい自我の浄化であるから、必然的にその人の周囲の浄化になっていくのである。
(87.別れの辞 より)
ワンネスを実現するには自己浄化が必要であることをこの熱量で説き続けるって、ものすごい精神力です。
ガンジーが差別をされる経験について書かれた場所で二カ所、とても印象に残る話がありました。
ズールー族の反乱は、新しい経験で満ちていた。そしてわたしに心の糧にいっぱい与えてくれた。ボーア戦争は、この「反乱」ほどの生々しさをもって戦争の恐ろしさをわたしに知らせてはくれなかった。これは戦争ではなく、人間狩りだった。
(45.ズールー族の反乱 より)
わたしの経験によると、役人たちは三等のお客を同胞とみなさずに、一群の羊のように見ている。彼らは横柄な口をきき、返答も抗弁も聞き入れない。三等の旅客は、役人に対して、ちょうど彼の召使いのように従っていなくてはならない。そして旅客はなんの罪もないのに、ののしられ、おどかされ、さらにあらゆる不便をなめさせられてから、ときには一汽車おくらせたりしたのちに、切符を売ってもらうのである。
これらのことはみんな、私自身の目で見たものであった。
(61.プーナにて より)
差別や値踏みをされる経験、そしてそこで無理矢理自己肯定をせずに考えてみる。ガンジーは恨み言なくこれはどういうことかをずっと考え続けます。
そしてとにかく人間の性質を観察するんですよね…。この様子がこの自伝の読みどころ。とくに以下の言葉が印象に残りました。
知ってか知らずにか、いずれにせよ、真実を誇張したり、押えつけたり、あるいは修飾したりしたい癖は、人間の生まれつきの弱点をなすものである。そしてこれを克服するのに必要なのが、すなわち沈黙である。(13.引込み思案、わたしの心の楯 より)
わたしは、当時は、また今日でもなお、どんなにたくさん仕事を持っていようとも、人間に食事の時間があるのと同様に、身体訓練の時間をつねにつくっておかなくてはならない。それは、人間の仕事をする能力を減退するどころか、かえって増加するというのが、わたしの素朴な意見である。
(38.ボンベイにて より)
わたしについて言えば、それは陰に陽にあらゆる人間性を研究するための手段になった。というのは、わたしは、つねに編集者と読者との間に、親密で清潔な紐帯をつくりあげようとしたからであった。わたしの前には、通信員の心中を吐露した通信文が山と積まれてあった。それらは、筆者の気質に従って、信愛的なもの、批判的なもの、痛烈にこきおろしたものと、さまざまだった。これらの通信文を研究し、熟考し、そしてそれに回答することは、わたしにとってすばらしい教育であった。
(41.『インディアン・オピニオン』紙 より)
道場(アシュラム)を運営していくためには、法規と規律が必要であった。そこで、そのための案文が作られた。そして友人たちに、それについて見解を述べてくれるように頼んだ。たくさんの意見が出された。そのなかで、サー・グルダス・バネルジーの意見はまだわたしの記憶に残っている。彼は規則に賛成した。しかし彼は、若い世代に、悲しいことには、謙遜が欠けているからと言って、規律の一つに謙譲を加えるべきだ、と提案した。
わたしはこの欠点に気づいていたけれども、それが誓いとなってしまった瞬間に、謙譲は謙譲であることをやめてしまうのではないかと思った。謙譲の真の意味は自己の消滅である。自己の消滅は解脱(モクシャ)である。
(64.道場の建設 より)
ガンジーはただ観察しているだけでなく、そこから「ゆるしかた」を開発していきます。
自分を害しようとする人のゆるしかたを語る以下の箇所は、菩薩でもなんでもなく、明らかに人間。
あの行為を犯した人たちは、自分が何をしたか知らなかったのです。彼らは、私が何かまちがったことをしている、と思ったのです。彼らは、知っているただ一つのやりかたで、私を矯正しようとしました。したがって、私は彼らに対しては、どんな措置もとらないように要求します。
(53.襲撃 より)
わたしはふだん、いわゆる感動ポルノと言われるような、耐える人を菩薩と賞賛してさらに負荷をかけていくやりかたにものすごく恐怖を感じるのですが、ガンジーの自伝はそれもぜんぶ本人が認識した上で言語化されていくので、なんともいえぬおもしろさがあります。
人間のことを見下さないための、尊厳を理解するための意識鍛錬の筋トレを見ているような、そういう読書時間がずっと続きます。
- 作者:マハトマ ガンジー
- 発売日: 2004/02/01
- メディア: 文庫