うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

野蛮なアリスさん ファン・ジョンウン著 / 斎藤真理子(翻訳)

落ちるところまで落ちればあとは上がるだけだなんて、一瞬納得した気持ちになっちゃうけど本当? 高度経済成長期を自分で稼いだお金で生きてみたら、そんな気持ちになれたりするものなのかな。わたしはさっぱり想像できないな。昭和のアニメ世界の根性論に見える。魂を売るほどのズルをせずに上がる方法なんて、あるのかな。

いつか底に着くだろう、そろそろ終わるだろうって思うんだけど終わらなくて、終わんないなあーって、一生けんめい考えながら落ちていったんだよ。
(150ページ)

この絶望感はくせになる。こんなにキツいのに、どうして懐かしく感じるのだろう。だって、ずっと考えて生きてる。落ちないように、今日も考えて生きている。

この小説は、くるしい懐かしみの記憶を刺激してくる。

魚の口を引き裂いて池に戻しておいて、生命の価値について語るような人間はぜったい信用できない。
(58ページ)

そう。「君は知っているか」と大人が話しかけてくるときには、まずオーディエンスとしての子どもスイッチをON。うっかり矛盾を見つけないように心をぼんやりとさせておかなくちゃ。くもらせたメガネをかけないと。このメガネは愛は地球を救うというテレビやアイドルの総選挙を見るときにも便利なもの。子どものうちに入手しておいてよかった…、だろうか。ま、どっちでもいいけどね。日本は平和だし。いやいやいや平和じゃないよね。だってあんなすごい言葉をツイートしているおじさんがいる。世田谷区の年金事務所長だって。えーまじなにそれこわい。この小説の世界みたい。でもその人だって、ごくごく普通の日本のおじさん。


──この小説の絶望感への懐かしみの感情の源泉へ、もう少しでたどり着けそう。でも、たどり着いたら日常をのほほんとは送れなくなりそう。だから考えることはこのへんでおしまい。なにか、おいしいものでも食べよう。

 

キツいにもいろいろあるけれど、このキツさはただ格差社会を見せつけられるキツさだけではないから、70年代生まれのわたしは途中で読むのをやめられなかった。序盤はあまりの言葉の汚さに疲れた。でも、うっすらと聞こえてくる著者のささやき声は序盤から鮮明で、あなたがあなたの中でなかったことにするのは勝手だけど、もうちょっとわたしの話にも付き合ってよと真正面から誘ってくる。そんなふうにまっすぐ頼まれたら逃げられない。

知っているから知りたがらないし、知りたくないから結局、知らないままだ。
(44ページ)

さまざまな反応を呼ぶ小説ではないかと思う。そういう反応をされる小説だろうと思いながら読んだ。韓国はすすんでるな。どんなにつらいことが書かれた小説でも、どこかしれっと冷めてしまうところを見つけてしまいがちなわたしなのに、この小説の描写は信頼できる。

 彼女は食べず、ぼんやりし、急に身震いし、泣き、吐き、顔を床に押しつけてつっぷし、眠り、寝言で死人たちと会話し、起き上がり、よろめき、めちゃくちゃな歩き方をし、髪をひきむしり、自分の首と耳をかきむしり、幼児のように足を広げて座り、他者を圧倒して悲しむ。アリシアは口をつぐんで彼女を見守る。彼女の圧倒的な発声のそばでは、口をつぐむよりほかないのだ。驚くべきなのだろうか。彼女を見ながら考える。まったく驚くにあたらない。彼女は今、いちばん彼女らしい。
 そして彼女は苦しそうに見える。この苦痛は偽者か。偽者といえるか。
(177ページ)

不機嫌さをマンガのような身体表現で示すことで周囲をコントロールするしかアイデアを持たない人の苦痛は偽者か。偽者といえるか。わたしはその不機嫌さのあらわしかたが昭和のドラマ女優の演技のそれすぎてモノマネに見えてしまって笑えて困る場面に出くわすことが年に一、ニ回くらいあるのだけど、同時に頭の中で立つ問いはまさに "そして彼女は苦しそうに見える。この苦痛は偽者か。偽者といえるか。" というものだ。彼女にはアイデアがないだけだろうか。

そこなんだよな問題は。

野蛮なアリスさん

野蛮なアリスさん

 

同じ作家の短編集も読みました。これもおもしろかった!