うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

プラクリチ 幸田露伴 著(岩波文庫「連環記」併録)

このタイトルだけで、もうハートズッキュンな文字綴り。これはインドのお話です。タイトルは女性の名前です。ほかにもマハープラジャーパチという人が登場します。このかたも女性で、お釈迦様の養母のおばさま。今ふうの綴りではプラクリティとマハープラジャーパティですが、幸田露伴の時代はプラクリチ。か、かわいい…。

ロイヤルミルクチ、ロマネコンチ、ハローキチ・・・昔の人はこんな発音をしていたのかな。かわいいなぁ。そういえばわたしが小さい頃、お婆ちゃんはピンクレデーって言ってたっけ。

幸田露伴正岡子規夏目漱石と同じ年に生まれた人ですが、30代・40代で亡くなった二人よりも長生き。このプラクリチは昭和7年に書かれた作品です。わたしはこの時代の知識人が残した書物にとても興味があります。夏目漱石が金七十論を読んでいた(講義を受けた)という説があり(参考)、金七十論というのはサーンキヤ・カーリカーの漢訳なのです。


きっかけはこのようにまじめな理由であったのですが、この書物は単純に短編小説としてべらぼうにおもしろく、文体も構成も舞台の脚本のようでぐいぐい引き込まれます。第一段落・第二段落・第三段落の書き出しの対比もそれに連なる内容も、日本語としてこんなにおもしろい文章にはなかなかお目にかかれない。
冒頭からすごい。

 恋愛は破壊をつかさどるものである。世界の安定ということ、箇人(こじん)の現状維持ということ、一家の平静ということ、そんな事は或処(あるところ)或時に恋愛の星のような小さな火が燃え出すと、大なり小なりその接近地帯を焼き立てられて破壊し去られる。先ず第一に恋愛にたずさわる自身がそれまでの自身を破壊する。次に良い息子や、おとなしい娘を有(も)っていた親は、息子を奪われる、娘を奪われる。不良児やあばれ娘を有っていた親は、無論のこと孤独者の境地に立たせたてるに至り、…(以下略) 

結論、そして事例のリストアップ。このリストアップがたまらん第一段落のあとに・・・
第二段落で、こうきます。

 しかし恋愛はまた建設をつかさどるものである。恋愛その物の帰着点が新しい生命を造り出さんとするのにあることは否定出来にくい事実だから、随(したが)って恋愛は建設を司るものであるとして間違はない。いや恋愛はむしろ新しい建設に向って走っているものである。(以下略)

このあとリストアップされる走り方のバリエーションがまた、楽しい。馬に喩えて書かれています。そんな楽しい第ニ段落のあとに・・・
第三段落で、こうきます。

 ところで、世は長く人は多い。この造物爺〃(やや)の洒落た趣向を見すかして、破壊と建設とのニ方面ともに辞退を申出で、頭から恋愛を否定してかかって、そんなものは真平(まっぴら)御免、三毒の一ツと毒物扱いにしたのは釈迦である。(中略)しかるに何という廻り合せであろう、その厳冷な幢(どう)に向って小さな牝馬が突進んで来て、そして相応にその破壊力を発揮したということは。

この少し先までが枕のような感じで、いっきに物語へ連れ行かれます。枕だけでおもしろすぎる!

 


創造主のような存在を「造物爺〃(やや)」として、語り部のような視点で書き進められていくのですが、いちいちふざけているので落語っぽく脳内再生されます。

そんな魅惑の書き出しですが、主題は身分の差。差を感じる心です。インドの身分制度の説明も、昭和7年の文章で読むとまた新鮮です。

 印度は夙(はや)くから階級の差別が社会の実際にも個人の感情にも成立っていて、婆羅門種(ばらもんしゅ)、殺帝利種(せつていりしゅ・クシャトリヤ種、即ち王種)、び舎(ヴェーシャ、即ち商人種)、戍陀羅(シュードラ、即ち農民、労働者種)の四姓が儼として認められ、そしてその順位の最下級の戍陀羅のまた下位に旃陀羅(チェーンドラ、即ち屠者等の卑種、ほとんど人外視さるるほどに一般人より虐遇さるるもの)が置かれてあって、旃陀羅と交通雑居したり、物品授受なんどすることは警戒すべき大事になっていたのである。この四姓及び旃陀羅の別は吠陀論師(べいだろんし)の昔から存していたことで牢として抜くべからざるの勢(いきおい)を成していたのである。
(18ページ)<び舎の「び」は「田比」←これを一字にした漢字>

 この物語は恋愛感情の活力も差別感情の活力も同じエネルギーだけど? という構成。阿難(アーナンダ)という仏陀の弟子に恋をした女性に周囲が翻弄されていく話なのですが、この女性の身分と名前の説明が、上記の引用箇所の続きにあります。

今この女の自らいった摩鄧伽種というのは旃陀羅種である。摩鄧伽は人名ではない、摩鄧女経や摩登女解形中六事経に人名のように訳してあるのは誤謬であって、摩鄧伽は卑賤の労働に従事する者の称であり、その種の男性をマータンガといい、女性をマータンギというのである。阿難に関して事件を生じたマータンギの名は鼻那耶(びなや)巻三に鉢吉蹄と見えている、それが真の名である。(19ページ)

ラクリチの漢訳名が鉢吉蹄。阿難と鉢吉蹄の物語がインドの男女の話であることを、この文字列から想像するのはちょっとむずかしいです。わたしの脳内映像は完全に西遊記テイストになっております。


それはさておき、この物語が投げかけてくる「自尊心」への問いはド直球。チェーンドラ階級の女の出家を許すことで、バラモンや長者連が「三斗の汚水を驀向(まっこう)から澆(そそ)がれたような気がした」という状況が発生します。以下の「私」は「自我(エゴ)」と変換して読むと入りやすいです。

なるほど詰らぬ差別は悪い私(わたくし)である、平等は実に美わしくて好いだろう、しかし人間は何処まで行っても自尊自責の念を絶無には出来ない。自尊の念はやがて人間を支持しているもので、そしてそれによって不断に向上の路を辿らしめつつあるものである。優勝心の満足を欠いては人生は精彩もなく活気もなく味も匀(におい)もない素気なものになって終う。人間界の優勝心が具象化されて長い歳月の間から階級が自然に成立ったのである。旃陀羅を卑しいものとしているところから農民の地位はそれに勝ったものとして保持されているのである、び舎より立優ったものとして殺帝利や婆羅門はその矜持や道徳を敢て保っているのである。今まで優勝者だった者が突然に旃陀羅を頂礼せねばならぬような場に立たせられては、味噌も何やらも一ツにされて終うのである。社会はこれでは無茶苦茶に破壊されるのだ。(31ページ)

インドになじみすぎると、幸田露伴のこのような「人間界の優勝心が具象化されて長い歳月の間から階級が自然に成立った」という見かたを忘れてしまうことがあります。この部分を読んみながら、日常生活でも「ここに具象化されたものはなにか」という掘り下げから逃げたくなることは多く、格差社会という四文字がズドーンと頭の中に落ちてきました。



この本を知ったきっかけは、少し前に読んだ「占星術師たちのインド ― 暦と占いの文化」にあった以下の紹介部分でした。

 仏教文献『ディヴヤ・アヴァダーナ』の一部をなす『シャールドゥーラカルナ・アヴァダーナ』には、紀元前後のころのインド天文学占星術に関するテーマが多く含まれており、科学史の観点からも貴重な情報を与えてくれる。仏教徒の間では愛好されたようで、『摩登伽経』と『舎頭諫太子二十八宿経』という二種類の訳がある。これらは大正大蔵経では「密教部」に収められているが、本来は密教とは関係がなかったものである。
 物語は今生の物語と前世の物語の二部に分けられる。主な登場人物は次に示すとおりである。
 今生では、差別されているマータンガ族の娘プラクリティが、差別をものともしない仏弟子アーナンダに思いを寄せる。その思いは仏弟子となることで昇華されるが、ほかの仏弟子たちからはなかなか差別心が消えない。それを知った釈尊が、前世では二人の立場は全く逆であったと言って、後半で前世物語を語るのである。

 

<今生物語>

  • 仏弟子:アーナンダ
  • マータンガ族の娘:プラクリティ

<前世物語>

  • マータンガ族の王トリシャンクの王子:シャールドゥーラカルナ
  • バラモンのプシュカラサーリンの娘:プラクリティ


 前世ではプラクリティはバラモンの娘であり、彼女を息子のシャールドゥーラカルナの嫁にと求めるのが、マータンガ族の王トリシャンクである。
 この物語の前半の今生物語に題材を得た幸田露伴の『プラクリチ』(岩波文庫『連還記』所収)は「恋愛は破壊をつかさどるものである」から始め、身分の異なるものの恋愛の激しさを見事な文体で語っている。
(98ページ 仏教文学のエピソード より)

よくできた話なんですよね…。幸田露伴が「造物爺〃(やや)」と語る元ネタを知るとさらにニヤニヤできます。
こういう、振り上げた拳の下ろし先を問うような物語を、インド人はどんな気持ちで読んだのだろう。読みたくないから仏教はインドで衰退してしまったのかな。そんなことをふと思いました。

 

連環記 他一篇 (岩波文庫)

連環記 他一篇 (岩波文庫)