映画を観たらひとり強烈な人がいて嫌な気持ちが起こり、確認したくて原作も読みました。
その人物は沙奈という名前で、松岡茉優という女優さんが演じていました。この女優さんは精神性の再現職人ね。ああいる、こういう人……と、数々の嫌な印象が思い出されました。
彼女のような優先順位で生きている人は高校だけじゃなく社会にもいて、できれば関わりたくないのだけど、たまに目をつけられて、場合によっては好かれたりする。わたしはそういう微妙な位置にいる人間。うああああああぁぁぁもうやめて。わたしの記憶を勝手に解凍しないで!
──という具合に、序盤からいじけマインド全開で物語に没入しました。こういうのがなくなるのは30代後半からで、そうなるとほんとうにラクよ~と、過去の自分に教えてあげたい。
小説では前田涼也の以下のモノローグが沁みました。
僕らは気づかない振りをするのが得意だ。
気づくということは、自分の位置を確かめることだからだ。
気づかない振りは映画でも表現されていて、その本心を確認するように小説を読むと、すごくおもしろい。
沙奈の人格は交際相手である菊池宏樹のモノローグで、このように語られていました。
沙奈はきっと、これからずっとああいう価値観で生きていくんだろう。カバンの奥の方に手を突っ込み、自転車の鍵を取り出す。「わーいニケツだニケツだー」と、喜ぶ沙奈。ダサいかダサくないかでとりあえず人をふるいにかけて、ランク付けして、目立ったモン勝ちで、そういうふうにしか考えられないんだろう。
だけどお前だってそうだろうが、と、夕陽に長く伸びる自分の影を見て思った。
そう、この二人は一周回って深いところでお似合い。
小説では菊池は最終的に、自分のイライラの根源を突き止めます。映画では別の表現方法が取られています。
映画では菊池個人にそれを言葉で語らせるようなことはできないから、野球部の先輩のキャラクターが最後に効いてくる。
映画を観て原作を読んでまた映画を観ると、ラストの苦しさが倍増します。
この物語は高校が舞台だけど、冒頭にも書いたように、同じような構図は大人になっても人の集まる場で起こりがち。
結果に執着せずなにかに夢中になれる人への羨望と嫉妬は、むしろ大人になってからのほうがそこに積み重ねの時間が加わってしんどくなる。
集中して自分のものにしている人の美しさは眩しすぎて、そうでない人の目を潰す。わたしは集中して練習に取り組む人をたくさん見てきたので、その眩しさがよくわかります。うまい下手に関係なく、聖なる空気を放つから。
「桐島、部活やめるってよ」は、何歳になっても行為への素直さが結局は最強の武器であることをこれでもかと見せつける、斜に構えた人たちをまとめて崖から突き落とすような物語。
斜に構えながらルッキズムを命綱にしているところはいかにも高校生って感じだけど、Instagram を開けば大人も同じことをしています。漠然と「♡」 を待つ、沙奈的人間がいっぱい。
小説のほうは、体育の授業で班をつくる場面が印象に残りました。こういうのって大人になってもグループワークで味わったりするけれど、それを乗り越えてきたことが共有できる瞬間が、大人の人間関係の醍醐味だったりする。結果を出すためにその都度大人になれる人が素敵。でもその素養も、高校の時点でほとんど見えてたりする。
先生が「5分くらいで決めちゃって」と言うのは生徒にとってはひどい仕打ちだけど、ここは先生側の気持ちもわかって、両サイドの気持ちが入り混じりました。
小説にはほかの部活も登場し、球技の練習の描写がすばらしくて泣けました。
わたしはソフトボール部だったので、グローブ越しの刺激のところでうわぁっとなりました。ボールをキャッチするときの感覚って足の裏とはまた違って、誰かと繋がっている実感をくれる。球技はそこがいいんですよね……。
運動部目線で映画を見ると、ラストシーンでぼんやり見えている野球部の練習が「内野の連携がダメダメ」な課題に取り組んでいるのに気づく。彼らは今日も淡々と課題に取り組んでいる。
それにしても。
いつまでたっても青春の味は「ほろ苦」どころじゃないエグみが残るものですね。学校は人間関係の練習試合をする場所だったのか。
映画の中で前田が菊池に「やっぱ、かっこいいね」と小さく言う瞬間の気持ちは小説では別の状況で書かれていて、視覚的・感覚的に惹かれるものを「かっこいい」と思える純粋さをこう表現するか! と、ここは映画版の脚本のすごさを感じました。
「逆光、逆光」(光が当たっているのは君の側でしょ)と言いながら、羨ましさも認めていく成長の瞬間。文化部の心の汗のかきかたをこんなふうに描くなんて。キュンとくる。
わたしは映画→小説→また映画、映画、映画の順で楽しみました。映画は観るたびに気づく演出があって、毎回新しい発見がありました。