うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

家(上)  島崎藤村 著

下巻も含めて一度通して読み終えたのですが、いくつも確認しながら読みたくなるほどおもしろくて再読しました。
人物相関マップを書き、そこに関係性やエピソードを添え、もう一度上巻を読み終えました。長編なのにこんなにすぐ再読したくなった本は初めてです。ここしばらくの世の中の変化に対して自分の考えを整理したいと思うことがたくさんあって、タイムリーでした。

 

もし島崎藤村が2021年にワープして、いま社会で動き始めているさまざまな変化を見たら、「やっとか……」と思うんじゃないかな。
破戒」で部落差別について書いた島崎藤村は、そのころ私生活では父的存在から受ける影響や気質の遺伝に向き合っていたようです。

 


島崎藤村は女性をものすごくよく観察していて、与えられた生き方と選択した生き方のバリエーション、それぞれの世代・立場での諦念まで細かく拾い出して書きます。

新生」に書かれたあの間違いさえ起こさなければ、この作家は小津安二郎監督のような評価をされる作家だったのではないか。『家』を読むと、そう思わずにはいられません。
時代的にも、この小説の世界は小津安二郎監督の映画『早春』(1956年)で浦邊粂子さんが演じた役の、さらに母親の世代の暮らしを想像させる内容です。
浦邊さんが演じる母親は、嫁いだ日に夫が友人たちと吉原へ行ったという思い出話を息子にするくらい、夫の女遊びに対して諦めがあります。そして娘にも、そういうものだと諭します。

映画の中に「女は三界に家なしだからね」というセリフがあるのですが、この島崎藤村の小説で描かれるのは、まさにそのセリフの裏付けのような世界。


『家』(1911年)では嫁と姑がともに夫に浮気をされ、その痛みを分かち合いながら親しんでいく関係が描かれます。

……お種は、何処どこへ行っても、真実(ほんとう)に倚凭(よりかか)れるという柱も無く、真実に眠られるという枕も無くなった。
 その日からお種は豊世と二人で、この二階に臥たり起きたりした。姑と嫁の間には今までに無い心が起って来た。お種は、自分が夫から受けた深い苦痛を、豊世もまた自分の子から受けつつあることを知った。自分の子が関係した女――それを豊世が何時の間にか嗅付けていて、人知れずその為に苦みつつある様子を見ると、お種は若い時の自分を丁度眼前に見せつけられるような心地がした。
(上巻・九 より)

地方の場面は木曽と長野が舞台で、下婢をとりたいが養蚕の間は帰さなければいけなくなったという話題もあり、『あゝ野麦峠』の政井みね(1909年に20歳で没)とも時代が重なります。

 

さて。
ここからは島崎藤村の観察眼のすごさについて書きます。なにがすごいって、どこまでも自分のエゴの醜いところを掘っちゃうところです。
妻とのコミュニケーションを緻密に描くことに加え、さらに以下のことを吐露します。

 


 妻に対して、今でいうモラルハラスメントをしていることを認識したまま、それをどうしてもしてしまう夫の心

 

 

いじめ行為を自制できない人間の心理を描ける力量は「破戒」でも存分に発揮されていたけれど、日常の家庭のなかで起こるいじめも書けてしまう。凹側と凸側を同時に理解させるように書けるって、そうとうなものです。


しかもこの小説の場合は、きっかけが王子様願望的な嫉妬。
第五章を読むと島崎藤村のその後の事件(小説「新生」で描かれるもの)の心理もわかる気がします。この小説に登場する三吉(モデルは島崎藤村本人)は、女性に対して「精神的にも肉体的にも完全に初めての男」になれるのでなければ、向き合うのが怖くてたまらない。
このことを自認したうえで、ここまでさらけ出して書いてるなんて凄すぎる。本人もかなりつらそうです。

彼は女というものを知りたいと思うことが深かったわりに、失望することも大きかったのである。
(上巻・五 より)

この一文が入る五章は上巻の前半のひとつの山場。読むのをやめられないほどいっきに展開します。
こんなの新聞連載されたら焦らされて気が狂いそう。読者をぐいぐい引っ張っていきます。

 


上巻の後半では、更年期に差し掛かった姉の様子を緻密に描きます。しかも視点が「この苦難をなんとか狂わずに乗り越えてほしい」という、やさしい視点。
以下は三吉と姉・お種の会話の場面です。

「三吉さん、御仕事ですか」とお種は煙草入を持って、奥の部屋へ行った。彼女は弟の仕事の邪魔をしても気の毒だという様子をした。
「まあ、御話しなさい」
 こう答えて、弟は姉の方へ向いた。丁度お種も女の役の済むという年頃で、多羞(はずか)しい娘の時に差して来た潮が最早身体から引去りつつある。彼女は若い時のような忍耐力(こらえじょう)が無くなった。心細くばかりあった。
「妙なものだテ」とお種が言出した。この「妙なものだテ」は弟を笑わせた。その前置を言出すと、必(きっ)とお種は夫の噂を始めるから。
(上巻・十 より)

この小説は方言で話す場面がなんともかわいらしく、それだけがユーモアの要素ともいえるほど淡々と進みます。それでもこの場面では、弟の態度から愛情が伝わってきます。

 


上巻は女性の立ち回りを描くことで全体を説明し、下巻は男性陣の家庭内采配で物語が動いていきます。島崎藤村は気質の遺伝、なかでも山気・狂気・色気に関心を持っていたようです。

山気はビジネスの失敗。借金の被害。狂気は現代でいう統合失調症で、父と姉がこの病にかかっています(別の短編小説「ある女の生涯」では姉の治療のことが書かれています)。
色気のほうは、父も息子も外に女をつくる女癖や性病被害。夫から性病を移されて苦労する妻が徐々に狂っていくプロセスが描かれます。


上下巻を通して読むと、こんなに壮大なDNAサスペンス劇場ってあるだろうか、という展開なのですが、そのサスペンスの根っこを支えているのは時代の価値観。

家父長制を成り立たせる、耐え忍ぶ女性の美しさを讃える教育がベースにあったことが回想の中で書かれています。

父の忠寛は体格の大きな、足袋も図無しを穿いた程の人で、よく肩が凝ると言っては、庭先に牡丹の植えてある書院へ呼ばれて、そこでお種が叩かせられたもので、その間に父の教えたこと、話したことは、お種に取って長く忘れられないものと成った。そればかりではない、父は娘が手習の手本にまで、貞操の美しいことや、献身の女の徳であることや、隣の人までも愛せよということや、それから勤勉、克己、倹約、誠実、篤行などの訓誨(くんかい)を書いて、それをお種に習わせたものであった。
(上巻・二 より)

このような教育を受けた姉は、とても苦しそう。
その様子を見守る弟や息子の世代は、問題の根っこを認識していながら、自分たちもその世代の価値観に悩まされています。

この苦悩の描き方がとてもリアルで、自分の力で変えられるなら変えていきたいと、東京であがく。がんばって! と応援したくなる。

 

この小説は、現実とのシンクロも含めて引き込まれます。上巻第一章で姉の夫が三吉のやっていること(小説を書くこと)をバカにし、姉は夫に調子を合わせつつ、自分の息子はあなたの書いたものが好きだと言って応援しています。こう振る舞うしかない姉の立場を最初にしっかり要約している。
そしてのちのち、この世代の失敗の尻拭いを小説で成功した三吉がカバーしていく展開になります。

 

わたしはいま社会の中で顕在化してきたさまざまな権威的存在の崩壊を見るにつれ、島崎藤村が言いたかったことに時代が追いついて来たなと感じます。
そのくらい、この作家は過小評価されすぎじゃないかと思います。「破戒」で差別される側とする側の心を描き、「家」で居場所を探す側と与える側の心を描いています。

10ページに一回くらいの頻度で登場人物がびっくりするような発言をするのも、この時代の倫理観・道徳観が手に取るように感じられて興味深いです。
上巻を読んだらもうそこではやめられないし、下巻ははじめから読むのをやめられないペースでアクセル全開になること間違いなしの、わたしにとっては超絶おもしろ作品でした。

 


上巻までの登場人物マップです。ネタバレしないように作ってありますので、これから読む人はどうぞご活用ください。

▼水色の濃い枠の人が、島崎藤村の立場にあたる小泉三吉です。

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家 (上)

家 (上)

 

▼下巻についてはこちらに書きました