うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

何者  朝井リョウ 著

昨年映画を観たのだけど原作は読んでおらず、友人のすすめで読みました。この話は twitter のテキストが重要と教えてもらった通り、映画ではつかみきれなかった関係性をあらためて追うことができました。

 

この物語は22〜23歳の就職活動中の人たちが主人公。わたしはその倍の年数を生きています。でもこのコミュニケーションの “感じ” は、まさに先月自分にもあったこと。就職活動中の人たちがやっている “進捗確認” のようなことは、何歳になってもあるのです。

 

先月のある日、数年ぶりに会った人からわたしの活動について尋ねられたことがありました。その人はたまたま目にしたであろうフリーペーパーとこのブログで得たわたしの情報から、気になることを聞いてきました。わたしはわたしで発信している場所がひとつではないために、回答しつつも相手の求めている ”感じ” がいまひとつつかめない。そういうことがありました。

 

この『何者』という小説は、そういう進捗確認のような会話の中にある痛みをつぶさに書いています。確認という体裁をとったなにかを、それを自覚しつつもどうにも止められない瞬間を文章化しています。

 危ない、と思った。この感覚を俺は知っている。

 話しかけているようで、話しかけているわけではない。相手からの返事が欲しいわけではないこの感覚。

自分自身の毒が自分に回っていくのを自覚しながら話すときの、あの雑な心の瞬間瞬間を実況する。
この作家のファンになる人は、きっとこういうところに格別な信頼を抱くのでしょう。だってまるでゴッド・ハンドのマッサージ師みたいなんだもの。リピートしちゃうよね。

 


それにしても、せつない。もう、どうにも懐かしみが止まりません。
この物語に出てくる理香さんのような人にわたしはこれまでたくさん会ってきたし、そしてわたしも、誰かにとっては確実に理香さんのような人であったはず。
若い女性が適度にリラックスしたまま意見を言う状況を社会が想定していないなかで、ディスカッションで意見を述べるって、大変なことです。いまだに小学生の時点でモノ言う女子のイメージはみぎわさんか花沢さんに限定されているし、でなければ「賢い子役の少女」が大きくなっただけのような扱いが関の山。
なので、この小説の中で就活と関係ない時のリラックスした雰囲気の理香さんの描写に触れた時には、人間のこういう一面を描き漏らさないところが、すごくいいなと思いました。


ネットとSNSがすでにある世界での人間関係の書き方についても、思うことがたくさんありました。
わたしは仕事柄、ネットの嫌な部分を普通のものとして見ながら使い続けてきたので、この小説に出てくる主人公の拓人さんや理香さんの傷つきがとても純粋に見えます。ネットは基本的にポジティブな情報探索に使うものと心根の部分で思っていなければ、ああいうヒリヒリした感じは起こらないから。
そして登場人物のひとりが言った「ただ就活が得意なだけだった」というのは、それを言っちゃぁおしまいよな感じがいい。「就活が得意」になってしまったほうが生きやすいのは確かだし、生存戦略としてまっすぐだし、なんなら物語なんて後付けでいいと思っていそうなこの人物の飄々とした感じがスマートに見えてくる。


日常でも職場でも家庭でも、365日24時間ソフトスキルを求められる社会のしんどさは遍くあって、就活周辺に限らない。いまさらながら、今ってこういう時代なんだなぁということを教えてもらった気がしました。