うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

原典でよむ タゴール 森本達雄(編集・翻訳)


前半はギータンジャリやその他の詩の訳、中盤からはエッセイや日本旅行記、対談、書簡の文章が収められています。
タゴールがアジア初のノーベル文学賞受賞者としてどのように日本人たちに迎えられ手のひら返しをされたか。そのあまりにも "ありそう" な対応に、読んでいて重い気持ちになりました。

この本の終盤に、来日時に同伴したイギリス人の友人C・F・アンドリューズの総括した文章が紹介されていました。

彼ら日本国民は、当初は詩人をアジアに名誉をもたらした功労者として熱狂的に歓迎した。しかし、タゴールが日本のあらゆる面に見た軍事的帝国主義に反対する考えを力強く述べ、それとは対照的に世界的友愛の展望をもって、東洋と西洋の真の出会いについて彼自身の理想の絵図を語ったとき、こんな「平和主義」の教えは戦時には危険であり、このインドの詩人は敗北国民の代表者なのだというほのめかしが広がった。そのために、熱狂が高まったのとほとんど同じ速度で、それは冷却した。ついに、詩人はほとんど孤立してしまい、彼が極東に来た目的は果たされないままになった。
(274ページ 『友への手紙』より)

その頃(1916年)の『新潮』七月号では「如何にタゴールを見る乎」──文壇十八家の感想── という特集が組まれ、驚くほど冷淡なコメントが載せられているのですが、武者小路実篤夏目漱石はそれでも抑制があるかな…と読み取れます。ムードって、こわい。わたしもこの時代に生きていたら「有名な頭のいい人がそういうのだから、そうなのだろう」と、流されていたのだろうな。
そしてこの『新潮』の夏目漱石に対する以下の見かたは、少し気になります。

 それにしても、タゴールの日本文明批判が漱石の目に止まらなかったのは返す返すも残念である。このコメントを書いたとき、漱石は持病の胃潰瘍を悪化させて病床に伏せっていた(それから数ヵ月後の十二月九日に死去している)。筆者がここで「返す返すも残念」と言ったのは、たんなる言葉の弾みではない。漱石が明治四十四年(1911年)に和歌山市で行った講演「現代日本の開化」の論旨と、タゴールナショナリズム批判のそれとの驚くべき符合に注目したいからである。
(270ページ 文壇のタゴール批判 より)

現代日本の開化」は以前ここでも紹介したことがあります。小説の中にもそういう表現がたまに見られるので、ナショナリズム批判もおのずと似てくるというのは、そうだろうな…という気がします。こんなことを書かれると三四郎の広田先生がタゴールのようなイメージで脳内映像化されてしまいます。



わたしはこの本の中の、タゴールが日本人を見たときの指摘がいちいち鋭くてどきどきしました。

 日本では、東洋の心が西洋から仕事を学んだが、彼ら自身が仕事の主人である。それゆえに、日本において、西洋の仕事と東洋の感情(こころ)とのあいだに調和が実現できるものと、わたしは心ひそかに希望をいだいている。もし実現されるならば、それこそ完全の理想が達成されることになるだろう。
(130ページ 日本紀行 抄「船上にて」より)

マニュアル化が進みつつも、仕事ぶりのなかに主体性を見てうれしくなる。そういう経験をされたようです。


 日本では、都市のたたずまいにこれといった日本人らしさはなく、人間らしい装いからしだいに訣別しつつある。すなわち、日本は家庭着を捨てて、事務服を着用しているのである。今日、事務王国とも言えるものが世界中にひろがっているが、それは特定の国に特有のものではない。事務所は近代ヨーロッパから始まったがために、その装いも近代ヨーロッパ風である。しかし実際には、この装いは民族や国家を物語るものではなく、事務王国を示すだけである。
(139ページ 日本紀行 抄「神戸にて」より)

心まで事務化が進んでいく気配が、なんとも引き込まれる旅行記の文体で記述されています。


タゴールの言葉を通じて日本人の国民性を客観視する、そんな経験ができる本です。日本人の横柄さの「色」が詳らかにされている。
なかでも日本の中国侵略への憤りを歌った詩にある表現はとても重要な指摘。いつでも読み返せるようノートに転記しました。気になる人は、ぜひ読んでみてください。