うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

なぜ日本人は世間と寝たがるのか 空気を読む家族 佐藤直樹 著


これも「加害者家族」という本のなかで、著者のお名前が紹介されていた本です。
この本を読んでいるうちに、なんでわたしが「世間」という考えかたに目を向けるようになったのか、ひとつ思い出すことがありました。

数年前にインドで参加したインド哲学のディスカッション授業で、先生が話していたことです。
わたしが授業を受けていた道場はガンジス川沿いにあって、目の前へ人々が沐浴にやってくる場所でした。そこに柵はなく、階段になっています。ガートといいます。
大雨になるとかなり水かさが増し、近年は氾濫することも多くなっているのですが、とにかく柵がない。なので、子どもが入って亡くなってしまうこともあります。


 でも、柵はない。なぜか。


これを小トピックとして先生が題材にしていて、その説明によると、その子(個人)のたましいが川に吸い寄せられていったと捉えるようでした。
英語でいろんな人がひっきりなしに話すディスカッションなので、文脈を厳密につかめていないところもあるのですが、そのときに "個人と神がつながっているという前提" で生きている人たちの感覚が、ぐっとリアルに見えてきました。
ほかにも自分と世界とのかかわり方について考えるトピックはたくさんあったのですが、この柵のないガートの話がずっと記憶されています。わたしが日本に帰ってから日本人にヨガを伝えていくときに、いちばんひっかかったのがここでした。この大前提の違いにどう向き合うかという題材は、いまもずっと考えるべきこととして、ドーンと存在しています。
そしてこの本に何度も出てくる「共同幻想」という言葉に大きなヒントを得ました。日本の「共同幻想」には、個人とつながってくれる神がいないのです。

 現在でも、たとえば過労死した夫の労災の適用を訴えて、記者会見で妻が語るような場合、「家族思いのいい夫だった」とか「子ども思いのいい父親だった」という言い方がしばしばなされるが、「自分を愛してくれたいい夫だった」という言い方はまずしない。これは現在でも家族の基本が、家族集団といういわば<共同幻想>にあることを物語っている。
 くどいようだが、これは、近代家族とはまったく以って非なるものである。
(68ページ 第2章 「私」なき国の近代社会 ── 「いえ」とは何か より)


 個人であれば、独立した一個の人間としてあつかわれるはずだ。しかし日本では、子どもを権利をもち人格をもつ個人であるとは考えない。母子は一体であり、その意味では子どもは親の所有物となるから、親が処分可能な対処にすぎないことになる。日本の「残された子どもがかわいそう」という発想は、それを前提にしているのである。
(147ページ 第5章 増殖する母性愛 ── 親子関係論 より)

家族集団という共同幻想の王道から外れてしまうと、存在しずらい。しずらいなりにふてぶてしく生きていくには、つねに自分で燃料投下をし続けなければならない。それもまたしんどい。


この本では、近代家族も恋愛もヨーロッパから輸入されたものであるが、「個人」というものがないところに概念だけ持ち込まれてしまったので、「世間」がそこに侵食してしまっているというベースの解説が第2章でされています。この2章がエンドレスの赤ベコ状態になるほどうなずく内容なのですが、そこから展開する第4章の以下は、これまでの自分の感覚と照らし合わせてみても、うなる。

 なぜ日本では「愛」という言葉が多様なのか。答えは簡単である。それは、日本の「世間」には、「身分制」というルールが存在しているからで、相手との上下関係にそってその都度言葉がかわるからである。これは、純粋な<対幻想>の関係であるべき恋愛関係のなかに、<共同幻想>である「世間」が侵食していることを意味している。つまり「身分制」という「世間」のルールが、内面化された「いえ」を出先機関として、恋愛関係を侵食しているのだ。これは西欧の恋愛とはまるでちがう。
(113ページ 第4章 妻をなぜ「ママ」とよぶのか ── 恋愛関係論 より)

ふと、学生の頃になんか不思議な表現だなと思ったフレーズを思い出しました。男女の仲ではない男性の友人(仮に太郎とします)と共通の知人に会ったときに、その知人からわたしが太郎にとって「よき理解者」という言いかたをされたときのことです。わたしが太郎を理解しようとする意思の主体(目の前にいる、わたし)を消しながらインテリ風の言いかたをするだなんて、なんていやらしい技巧だろうと感じました。太郎が浪人をしていたためにわたしのほうが年下で、なのによく話についていっているねというふうに言われたようにも感じました。いずれにしても、なんかヘンな感じだなと思いました。
ちなみにわたしは女子アナという職種に、これに似た「なんかヘン」を感じることがたまにあります。


「個人」には常に「世間」のラベルが付きまとう。
「あなたはなんのラベルも付いていないから、信用していいのか、なんのお話をしていいのか、わからないわ」というコミュニケーションではない、そういうつながりが作れるようになれれば楽しい。そうでなければまあまあ地獄。
NOラベルでも話せる場って、日本人同士だとなんでこんなにむずかしく感じるのだろう。わたしは5年前からずっとこの問いを抱え続けているのだけど、<共同幻想>の四文字でいろいろスッキリしました。