うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

見ていない、と普通に言えた平和

オリンピックが終わり、誰かと会った時に「見た?」と訊かれることのない日が戻ってきました。
わたしはリアルタイムで試合を見ずにオリンピックが終わったのですが、その話題で盛り上がっている人の前で「結果だけニュースで見ました」と普通に言えて話にも参加できる(その話が続く)状況は、生活環境の過ごしやすさとしてけっこうな進歩じゃないかと思っています。
ああ、あなたはそーゆー人ね、はいはいはい。で、それは主張なの?  という態度で処理されない。多様性とゆるい繋がりが実現できている感じ。

 


わたしも家にテレビがあれば、たまには見たのだろうと思います。でも、なきゃないでネットで追いかけてまで見るかというと、そういう気分になることがありませんでした。ちょっとはなるかな……、と思っていたのだけど、暑くて。

今年の夏は、日常の延長にある楽しみ(かき氷を食べにいくとか)のほうがわたしにとってはイベントでした。

 


身体が卵かけご飯を渇望しているときに、フォアグラだよと言われてもピンとこない。それでも、「いま卵かけご飯にハマってて、フォアグラは匂いだけ嗅がせてもらっております」というトーンのわたしに、「まあそうよね。なんかそういう気分もわかる」という返答をしてくれる人が少なくないことがありがたかったな。


メダルのニュースが流れはじめたら日常までその色に染められるような雰囲気ではないことが確認できて、わたしは意外と話せる人が増えていると感じました。熱狂しないことによってわだかまりができるようなことがないのは平和でいいな、と。

みんなが同じ気持ちになって一体感の量が多くなるように感じることは、共同幻想の総和であって、平和とはちょっと違うものかなと思います。

なので今回のように無理せずバラバラでもいられたのは、それはそれで平和であったということかと。効率はめちゃくちゃ悪いですけどね。

共同幻想って、ものすごく効率を上げてくれる魔法のような力なんですよね。だからこそ、使い方は考えなければいけない。そういうものなのだと思います。