うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

食べて、祈って、恋をして〔新版・ハヤカワ文庫〕エリザベス・ギルバート著/那波かおり(翻訳)

冒頭の「十年目のまえがき」に心を掴まれて読みました。
この物語の存在は10年以上前に、映画の予告映像で知っていました。そして反射的に避けていました。わたしはこの映画がヒットした2010年の少し前にインドでヨガの練習にハマったので、乱されたくないところをいじられるのではないかという防衛本能がはたらきました。
こういう本や映画がヒットすることで、わたしは「自分探しの旅をする意識高い系女」のカテゴリに入れられてしまうのか。それは嫌だと思っていました。映画にも原作にも一切触れずにそう思っていました。

あ”あ”あ”あ”あ”、ほんとうにごめんなさい。これは土下座せにゃならんレベルの勘違いです。

 


この物語の主人公(=著者)は、そもそもフワフワしていません。精神は不安定でも、それ以前にコツコツ個人でキャリアを築き、バリ島へ行ったのも初めてではなく以前に仕事(ヨガ合宿の取材記事執筆)で訪れた経験をお持ちです。
書く能力で社会から信頼を築き上げ、さらに現地で起こしたいアクションがあれば、今でいうクラウドファンディングまでやってのける。文章で広く訴えかければ資金が集まる。想像以上にデキる人の回顧録で(しかもユーモア満載)、歴史や文化史解説を含んだ旅行ガイドとして、とてもためになる内容でした。
十年目のまえがきには、「本書が浴びた批判のかなりの部分は、このわたしの恵まれた特権に関するものだった」と書かれていました。

 

2021年にこの本を初めて読む日本人のわたしの感想は、この本が出版された当時の英語圏の人とはたぶん少し違います。
この本のなかに、「グル」という言葉によい印象を持たないのは西洋人も同じであることが説明されている章があり、実名は書かれていませんが1970年代に裕福な若者たちが傾倒したインド人グルたちによって、という表現でそれがラジニーシ(OSHO)を指すことはすぐにわかります。
これは日本人同士で「高学歴の若者たちが尊師と崇めた人物」と書けば何を指すかがすぐにわかるのと同じ感覚。
そしてその話の後の流れが、読んでいてすごくためになります。そこには「グル」という存在に対する著者の感じかたがユニークな方法で綴られていました。
(すばらしい言語化がなされているので、ぜひ本を読んでみてください。その国の言語がその国特有の意識を反映していることをとても上手に説明されています)

 

 

この小説のヒットの要因は他にもいろいろ思いつきます。
読みはじめの序盤は、頑張れば頑張ったで別の地獄が待っている社会でもがき苦しむ姿と、その悔しさの脳内書き起こしっぷりに圧倒されました。
そして共感を集めれば、それだけ口汚い中傷が届くのも現実。自分の人生を生きようとする人間に向けられるまなざしの豊かさと残酷さを見せてくれます。
繰り返しますが、この2020年の新版はいいですよ! 著者のまえがき・訳者のあとがきが現在の内容にアップデートされていて、いま読むとそれも含めてガツンときます。ものすごいインパクトです。

 


それにしても、読む前にわたしがこの物語に対して漠然と抱いていた、「自分探しの旅をする意識高い系女のカテゴリに入れられてはたまらん」という思いは、我ながらなんと素直な拒絶っぷりでしょう。
自分の雑な思い込みのひとつひとつを切り崩されるたびに、反省しながら打ちのめされて、抱きしめられる。こんなに苦しくて楽しい修行的な読書時間はなかなかありません。
わたしはまず「意識高い系」から分解せねばなりませんでした。それはずばり、自分の人生に対して仕切り魔であるということ。たぶんわたしは、そういう指摘を受けたのです。(実際には著者がインドでその指摘を受けた)

すぐに過剰に結びつきを求め、片付けたがる。その過剰さがやばい。関係性中毒。
第二部(インド編)でこの「仕切り魔」というパワーフレーズが出てきた時には、そこに訳のおもしろさがなければわたしの自我が死んでしまう! と思いました。仕切りたくて仕切ってんじゃねぇんだ! というこの思いこそ、生きる力でもある。ヨガや瞑想をしながらそれを認めるのは大変なことです。

 


わたしが「おしん病」と呼んでいるメンタルをアメリカのキャリア・ウーマンも持っていることが第一部(イタリア編)でいきなり表明されたのにも驚きました。わたしはこの意外な符合に軽くショックを受けました。

わたしが人生の悦楽を求めようをするとき必ず足を引っぱるのが、ピューリタン的な罪悪感だ。わたしはこんな喜びに値する人間かしら。まさにアメリカ人。わたしたちは自分が幸せに値するだけの働きをしたかどうかに自信がない。
(21章より)

意識高い系って、自責多い系? とハッとしました。「わたくしのような者が」という、あれです。世にはびこる ”させていただく” 連発文法も同じ原理のように思います。

 

そしてそんな自責のスパイラルからの逃避と「スピード恋愛」は、やっぱり好相性。仕切り魔はすぐに結びつけて片付けたがるから。
この物語はそんな心の性向を一年間かけて見つめ、克服しようとする過程が主軸になっています。しかも出だしの過酷さが半端じゃない。キャリアの夢を追いかけて働き、結婚生活ですり減り、すでにメンタルが崩壊しているところに9.11が起こっています。
特に序盤は、大変すぎて休み方がわからなくなっている人そのものの思考をしています。そこから少しずつ変わってくる。

イタリアへ発つころには、肉体も精神も枯れ果てていた。自分のことを貧乏農場の使われすぎた畑の土のようだと感じた。しばらく畑を休ませなくてはならない。だから、わたしは恋愛を断った。
(22章より)

 こうなったのは当たり前だった。イタリアの瀟洒なホテルに置いてあった体重計に乗ってみたら、四ヶ月で体重が十キロも増えていた。なんという驚くべき数値。でもまあ、そのうち六キロは取り返してしかるべき体重だった。この数年間、離婚問題と抑うつとで、わたしはがりがりに瘠せ細っていた。で、残りのうち二キロは、四ヶ月楽しんだ分で増えた。じゃあ、最後の残りの二キロは? これでいいのだ、と自分に念押しするために増やした……たぶん。
(35章より)

と、イタリア編を読んだ時点では、苦労からの再生の予感まで。


━━ なんだけど、ここからそんなに、ふわふわっとはいきません。
第二部のインドで精神修行をし、第三部のインドネシア(バリ)編では社会の現実を見据えつつ、考え方を統合していく。この精神修行の最中に出会う別の西洋人からの指摘が鋭く、印象に残ります。
仕事と恋に破れて苦労しまくった女性がそこそこ再生してちゃんちゃん、というほっこりハッピーエンドで終わって欲しかった人には、そこまで書いてくれるなという内容だったのでしょう。それは批判も受ける。
以下のような振り返りを文章化できてしまう著者は、いろいろ差し引いても書き手として神がかっているように見えます。

 振り返ってみると、わたしはこれまで、こと男性に関して結論を出すのはとびきり早かった。危険も顧みず、またたく間に恋に落ちた。元来わたしは、どんな人に対してもその人の最良のものを見ようとするし、こと愛情面においては、誰もがその潜在能力を最大値まで発揮できると考えている。相手の潜在能力の最大値に恋をしたと思われる回数のほうが、その人自身に恋をした回数よりも多い。そんなわけで、わたしは恋をすると、相手の男性がその最大値を発揮するのをいまかいまかと待ちわびて、その関係に執着する(ときにはあまりに長く)。多くの恋愛において、わたしはわたし自身の楽観主義の犠牲者だった。
(96章より)

この最後の「わたしはわたし自身の楽観主義の犠牲者」という達観、そして「相手の潜在能力の最大値に恋をしたと思われる回数のほうが、その人自身に恋をした回数よりも多い」とまで自己分析する冷静さに、わたしの中の100人のわたしがスタンディング・オベーション


特にこの96章の振り返りは眩しいくらい鮮やかで、以下のくだりは全女性に写経を勧めたいほど。

 誓っていうが、家父長制の時代に戻りたいと言っているわけではない。ただ、家父長制が崩壊した(これじたいは正しい)時点で、それに代わる保護的な手段が講じられたわけではないという事実にわたしは気づいてしまった。つまり、わたし自身は求婚者に対して、異なる時代の父親なら当然尋ねたはずの挑戦的な質問をしようとは考えないということだ。わたしは愛の名のもとに、自分自身を何度も相手に明け渡してきた。ただひたすら愛のために。その過程の中で家一軒を明け渡したこともあった。もし、わたしが本当に自立した女であるなら、わたしは自分を守るという役割を自分自身で担わなくてはならない。女性解放運動の活動家、グロリア・スタイネムは、かつて女性への助言として、女性は自分が結婚したいと思う男性のように自分がなるために闘うべきだ、と言った。いまごろになってようやく気づくのだが、わたしはわたし自身の夫ではなく、わたし自身の父親になる必要があった。それが、今夜、わたしをひとりのベッドに送りこんだ理由でもあった。ひとりの紳士の求愛を受け入れるには、まだ早すぎると感じられたからだ。
(同じく96章より)

著者は自分の意識を消すことよりも守ることのほうに少しずつシフトしていきます。「自分を大切にする」という意味について、自分の中での解釈の変化をこんな風に文章化できる人っているんだ……と、感動しました。
ここは長い長い文脈ありきの理解が求められる章で、共感と批判の熱量が高まるピークポイント。構成力に唸るとこでもあります。わたしはこの部分を、十年前に読んでもさっぱりわからなかったと思います。「もし、わたしが本当に自立した女であるなら」なんてパワフルな問いは、今もまだ背負うことができません。


この96章は、もう渡りに船のような恋に逃げなくなっている絶妙な「仕切り」のモノローグが素敵。著者はこんな内省をします。

 わたしたちは笑い合った。それでも自分自身のなかにある躊躇については、彼にきちんと語っておかなければならなかった。おとなの男性の信頼できる腕にしばし抱かれたり、抱き返したりするのはとても楽しい。でもその一方で、わたしのなかのなにかが、この旅に明け暮れる一年間をまるまる自分のために使うべきではないかという問いを投げかけていた。わたしの人生には重大な変化が起こった。その変化は、どんな干渉も受けることなく、それじたいで収束していけるような時間と余裕を必要としている。たとえるなら、わたしはオーブンから出てきたばかりのケーキで、砂糖衣をかけられる前に、まず冷ますための時間を必要としていた。その貴重な時間をみずから損なうようなことはしたくない。自分の人生のコントロール権をまた失うようなことにはなりたくない。
(これも96章!)

自分の人生の仕切り魔であったことを後悔しながら、コントロール権は失いたくないという、この葛藤に、ここまで付き合ってきた読者はハラハラします。それをケーキに喩えるあたりが、なんとも軽快。


この物語は第三部がインドネシア(バリ島)旅行記で、男と女と金と尊厳と社会のシステムについて掘り下げたトピックが散りばめられています。この編み込みもまた絶妙で、100章に出てくる男性側に原因がある場合の不妊治療の話には、思わず膝が抜けました。絶望しながら納得するというエゴの筋トレがまだまだ続く。


他国の人の生き方や常識に驚きながら、自分が苦しんできた常識や思い込みから距離をとっていく。この「距離をとる」ことそのものについて、それは幸せかという問いを突きつけてしまったところに、この本が起こした波の大きさを感じます。
物価が安く昼間から酒を飲めてしまうバリ島に沈没している西洋人への指摘も、淡々と容赦ない書きっぷり。わたしもそういう話を友人と家でこっそり話したりするけれど、それを活字で出版するものとして英文で書くのは、しかもフィクション小説ではない形で書くのは、かなり攻めの行為。それ、思ってても言えないやつ……いくつも書かれていました。

 

お話が108章(各国36章ずつ)になっていて、読んだもの同士が「○○章にあった件」ですぐに話し始めることができてしまうのもニクい仕掛け。第二部でバガヴァッド・ギーターが引き合いに出されるときも、瞑想から起こる葛藤の場面ではギーターの第6章(瞑想についての章)が出てくる。まあどうにもよく練られた構成です。

感情面の掘り下げをこんな風に四方八方からおもしろくまとめるなんて、作家ってすごいのね。まるでアスリートが猛スピードで駆け抜けるのを見るように圧倒されちゃいました。

 

▼これ! この「新版」がいいです。

 

▼あまりにおもしろかったので、映画も観ました!