うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

働くことの哲学 ラース・スヴェンセン著 小須田健 (翻訳)

「働くこと」についての思索がおもしろく綴られています。
わたしは「働くこと」について自分なりの考えがあるのですが、その理由を会社員時代の仕事仲間にうまく説明できません。


東京にいると地下鉄や電車のホームで旧職場の知人とバッタリ会うことがあって、そうすると漠然といろいろ訊ねられます。連絡先を確認して集まりや会を開こうとする人もいて驚きます。
なかには面と向かって「早期リタイアの先駆けだよね」などと言う人もいて、知っている単語を当てはめないと理解しずらいのはわかるけど、その人のイメージ通りの転職をせず貼り替えたラベルが見えない生活をするだけでリタイア扱いになるなんて。

「早期」も「リタイア」もまったくピンときていないのに、なんか消される。

 

そんな背景もあって、わたしは仕事へのスタンスや考え方をいまは長年の友人にしか話しませんが、社会と関わりながら働く生活はずっと続きます。
この本はまるで友人と話すように読める本で、こんな内容でした。

以前には労働がなんであったか、そしてこんにち労働とはどのようなものであり、このさきどのようなものになってゆくのかといった多様な側面についてのスナップショット集

著者による序文にそう書いてありました。

 


わたしは会社勤めの頃から、仕事とアイデンティティを紐付けない瞬間や人間同士の信頼関係に興味があって、その再現性を考えてきました。所属組織名・職種名・持っている資格などのラベルと自分を切り離してみる、そういう実験を日々やっています。それはヨガについても同じで、あらゆる場面で先輩・上司・先生・師匠・親方・仲間など、その時々の立場が変化する形で「個人」との繋がりがあって、残るものだけが続いていく。

共有したのは「ラベル」ではなく「経験」という前提でいくほうが、人生のグラデーションを細かく楽しめます。

 


働くことが想像以上に長く恒常的なものであるからこそ、そう捉えていかないと、時間に紐づく付帯情報の多さに振り回されることになる、自分の可能性も居場所も狭められる。こういうふうに考えるようになったのは、いつからかな。
55歳で多くの人が定年を迎えていた戦後の昭和と今は違うので、いかにそこに自分の心労リソースを使わずにいられるかというのは、とても重要なこと。

 

この考えは、これまで誰にも説明する必要がなかっただけで、秘めていたわけではないし、身近な友人とはよくこういう話をしています。

そしてこの本に出てきた「ソフトスキル」に関係する記述の部分は、まさにこれまで自分が課題と感じてきた環境問題そのもの。自分のなかでいろんなことがクリアになりました。

 労働の性格が変わるにつれて、管理の性格も変わった。たとえば、いわゆる「ソフトスキル」━━これはあるひとがどんな類いの人間であるか、社交的なのか、協調的なのかなどを示す━━が、技術的能力を意味する「ハードスキル」との対比で、ますます重視される傾向がある。「ソフトスキル」のほうが優位を占めるにいたった理由のひとつは、共同作業(チームワーク)が以前よりもずっと一般的になったことだ。
(第5章 管理されること より)(本文では 人間 の箇所が強調点)

この状況を著者は段落の末尾で「連続的な一夫一婦制」という言い方をされていました。なんとしっくりくる喩えでしょう。以前のチームで得たスキルや評価を元に「この人はすぐ使いものになります」と所属先が変わっていくことは、まさに連続的な一夫一婦制。

この段落の少し後で、淡々と語られる以下の指摘が、自分にとって「まさにこれ!」と思うところでした。

私たちは伝統に反抗的にして独創的、独立不覊にして創造的で陽気でありながら、同時に「チームの一員」ともなれる。私たちはタフでありながら、情緒は安定していて、「ソフトスキル」を活用できるとされる。これらの性質は、ふつうであれば両立しにくいものだ。

著者は上記のような状態を1960〜70年代のカウンター・カルチャーのスローガンのようだと言います。
わたしはハードな責任を負う人がスピリチュアルな方向に傾倒したり、そうでなくても複数の仕事を持つ人が増えるのは、上記のような普遍的な理由があると思っています。ふつうであれば両立しにくい人間性を求められるなかでバランスを取ろうとすれば、そうしたくもなる。

 


マルクスの考え方が「労働と生産性」×「文明と欲求」の視点で見て、”足るを知らない” 構造である前提に立っていることを知ったのも収穫でした。

マルクスが提起する現実的な解決法は、人間は労働しつづけるよりほかない以上、必要性の領域に囚われたままでいるほかないが、そのなかで私たちになしうるのは労働量を削減し、それによって労働を少しでも「人間的な」ものにすべく粛々と努めるしかないというものだ。これに比べれば実効性があるとはとても言えない解決法が、共産主義革命であることは言うまでもない。
(第2章 仕事と意味 より)

いつか読むかもしれないと思いつつなかなかたどり着かないマルクスでしたが、ほんの少し近づけそうな気がしてきました。

 


さて。

この本は10章のテーマで書かれていますが、第4章の内容はわたしがインドで受けた哲学授業で扱われたトピックと重なるものでした。「仕事とレジャー」という章です。

「レジャー」という語は、「許されている」という意味のラテン語の licere に由来する。レジャーのときは時間をどう使ってもかまわない。少なくとも、そこにこそレジャーとはなんであるかについての土台となる考えがある。してみれば、ある活動が労働であるかレジャーであるかは、それをおこなっている当人の意識によることになる。
(第4章 仕事とレジャー より)

この章は「当人の意識」というところを掘り下げていくのですが、そのなかで興味深い引用がありました。
1928年(1970年に再刊)のある論文のなかで、として、G・K・チェスタトンという人物が残した言葉です。

 いまやレジャーということばは、まったく意味の異なる三つの事柄を包括する名まえとなっているようだ。第一は、なにかをすることが許されているという意味。第二は、なんでもすることが許されているという意味。そして第三(の、おそらくもっとも稀で貴重なの)は、なにもしないでいるということが許されているという意味だ。
(第4章 仕事とレジャー / G・K・チェスタトンの論文からの引用より)

このあと第一、第二、第三と詳述されるのですが、

第三の部分からは以下のように書かれていました。

第三のタイプのレジャーについて言うなら、まったくなにもしないというのは、もっとも貴重にして活力を与えてくれる、純粋にして神聖、高貴な習慣にほかならないが、これは私見では全人類の退化を招きかねないところまで、これまで無視してきた。

わたしは20代で働きはじめてから20年近く「ぼーっとする」ということがどういうことかわからずに生きてきました。自分に合ったやりかたで瞑想を続けるようになってから、やっと「連想ゲームも言葉遊びもしていない、いまにも寝そうな感じ。まどろみ」と認識するようになったのですが、そういうことについて掘り下げるきっかけが以下の授業でした。

 

G・K・チェスタトンという人が言うように「活力を与えてくれる」「純粋にして神聖」ということについて、わたしはヨーガの哲学授業で様々な角度から事例を示されることで、やっと理解の糸口を得ました。

なので、マインドフルネスが「高貴な習慣」のように流行しはじめたのは、とても興味深い流れと感じています。

 

この本はどの章も語り口が軽快でちょっとシニカルで、小説やドラマや映画もよく例に出てきます。わたしは特にイギリス版の『The Office』というドラマの内容が気になり、観てみたくなりました。
いまはネット上にさまさまな「働き方」のコンテンツが花盛りですが、親しみやすい人や芸能人が語るそれよりも、考え方の歴史を紐解きながら語るように綴るこういう本を読むほうが、自分の葛藤の棚卸しや背景整理がしやすいと思います。
「好き」という印象を「決めてくれそうだから」「決めた理由を他人と共有しやすそうだから」という理由で抱く人は少なくないし、「働き方」の指南のなかには共同幻想のように仮想敵を設定して一緒に戦う雰囲気を出している、そういうものも多く見られます。


だからこそ、こういう本を読みながら考える。自分のなかに仮説がない状態で他人に相談すると、自分に対する自分の信用がなくなってしまうから。わたしの場合はそうです。

 

働くことの哲学

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