先月観た「ELLE」という映画をきっかけに原作本を読み、そのあとがきにあった「失敗を許さない社会」の考え方から、この本を読んでみました。
映画のなかにある加害者家族への扱いが、意外とフランスもこんな感じなんだという描かれかたをしていたので、あらためて国民性のようなものに目を向けようと思ったのでした。
東京では、殺人事件でなくても、大きな話題になる事件で異様なメディアスクラムを目にしたり、記者が張り込んでいるのか? と思うような状況をたまに目にします。そして実際、人違いで迷惑行為を受けた例を聞いたこともあります。車に傷をつけられたり、なんだかもう大変です。なので被害者家族・加害者家族となれば、それはもうそうとう大変だろうと思う。この本を読んだら、その大変さは想像を超えるものでした。
そして、以下は冷静に考えると、たしかに多くなるはずの状況。
今回の取材を通じて、ある一人の女性から「加害者家族」が立たされる中でも、最も難しいであろう状況についての話を聞くことができた。
その女性は「自分は被害者の家族でもあり加害者の家族でもある」と語った。女性の身内が別の身内に危害を加えたのだった。女性は誰にも話せない苦しみをどうにかしたいと、犯罪被害者の団体にも連絡をとったが、「会には参加させてもらえなかった」という。
実は、こうした家族内に被害者と加害者がいるというケースは殺人事件の大半を占めている。
最近、無差別殺人や猟奇的な事件が社会を騒がせるため、そうした事件が多いように感じられるかもしれないが、実際のところ、殺人事件のうち最も多いのは、40%前後を占める「家族内殺人」である。父母、配偶者、兄弟、子どもが被害者となるケースが大半なのだ。傷害致死の場合も、およそ40%が家族内に加害者・被害者がいる。
(第二章「家庭内殺人」の惨事 より)
借金問題レベルでもしんどいのに、こんなふうに抱えていくことになるしかない状況での板ばさみは、想像するだけで苦しい。この本にも、夜逃げして離婚して姓を変えて信頼できる人にかくまってもらって、その人にも迷惑がかかってしまって…、という事例が出てきます。
そして日本の社会は、やっぱりここが苦しいと思う。
日本という社会において加害者家族が置かれる立場を理解する上で、「世間」という概念が一つのキーワードになってくる。「世間」は社会学者の阿部謹也が導入した概念であり、現在では佐藤直樹が分析を深めている。1年に1回「世間学会」という学会も開催されている。
「世間」においては人権や権利はない。あるのは「贈与・互酬の関係」、つまり「お互い様」という関わりだけだ。贈られたら贈り返さなければならない。別の言い方をすれば、やったらやり返されるということになる。
西欧的な意味での「個人」は、「世間」には存在していない。西欧的な社会の概念では、一人ひとりの確立した「個人」が集まって「市民社会」を作り上げているのに対して、日本は個々人があいまいな「世間」によって成り立っているというのが、その概念の簡単な説明になる。
(中略)
事件が発生すると、加害者家族は、個人が存在しないこの「世間」に取り囲まれる。嫌がらせの手紙や電話、落書きは、ほとんどが匿名によるものだ。集団で同じ行動をすれば、匿名の個人は目に見えない存在として、集団の中に紛れ込める。結果的に常に安全地帯から意見表明をすることができる。そして「世間」による加害者家族への攻撃はエスカレートしていく。
さらに、匿名性が極めて高いインターネットが、もともと匿名性の高い「世間」の暴走をさらに加速させている。
(第四章 「世間」の怖さ より)
少し前に読んだ「おもてなしという残酷社会」では「お互い様」のポジティブな側面が語られていたけれど、「お互い」に「関係者」がいて、さらにつながりがあるという視点の半径の大きさについてはあまり語られていませんでした。あなたが攻撃したい対象にとって大切な人が、わたしにとっても大切な人かもしれないという想像のほうへは向いていなかった。
でもひとつ前の引用箇所のように、被害者と加害者がクロスするような関係は、コトが身近で起こっている場合にはすごくたくさんあります。勧善懲悪仕立てではない設定で他人を勇気づけたくても、すんなりいかない。それ以前に、まだまだ地獄を見ないと進まない。わたしにはいまの社会がそんなふうに見えます。
わたしは2年前に、自分のヨガクラスやイベントで集合写真を撮らない理由をここに書いたことがあるのだけど、実際のところはさらに理由があります。
たとえばDVをやめられない家族をなんとか振り切って生活を立て直した人や、ざまざまな状況の中で再生中の人にも参加できる場にしたいから。職場にヨガをしている人がいて Facebook をやっているのだけど、知られたらなにか聞かれるだろうな…、なんて思うのはシャンティじゃないでしょうか。みたいな理由で悩んで欲しくないなと思っています。
世の中も個人も、関係はそんなに単純ではないと思うんですよね…。
「ELLE」からの流れで思わぬ方向へつながっていったのだけど、でもこれはかねてよりわたしが考えていることでもあったから、やはり「救い」以前の「世間体」というのは、無視できないというか、無視すると生活上に矛盾が発生するんですよね。
海外ではヨガニードラが自身にポジティブな宣言をしていくものとして受刑者へのセラピーに活用されていると本で読んだことがあるのだけど、日本の場合はまだまだ「ポジティブ」が表面的であると感じます。
表面的だという自覚をもっていることすら、表明しずらいのが現状です。
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