大学に限らず就職活動でもその後の会社生活でもそうだと思うことが物語のなかに散りばめられていて、この本の内容に憤ったり読むのがつらいと言える人を少しうらやましく思う。あるあると思いながら読んでいる自分が異常なのだろうか。もはや平均がわからない。
東大生の起こした事件が題材になっているけれど、同じ要素はあちこちにある。わたしの知っている東京の景色でいうと、広告収益やネット課金を主とする数百人規模(あるいはそれ以上)の会社で働いている人の多くが「この感じって、べつにデフォルトでは…。自己防衛するしかないやつ」という感覚で読むのではないだろうか。そのくらい、あまりにも身近で想像しやすい "(仮)の主従関係と忠誠心" で構成される会話とモノローグの連続だった。
後半で2回「ドワンゴ」という文字列が使われている箇所があって、ネットスラングにしては不自然で気になった。それをきっかけに考えた。この物語は、IT企業がエンジニアを午前中に出社させるためにジャージの女子マネージャーのコスプレをした女性を呼び、体操をしてお弁当を手渡すイベントをしようという発想に至る、そういう意識のありようを揶揄しているのではないか。(参考記事)
考えすぎだろうか。この小説には、本名を覚えなくてよい扱いの「女子マネ」が2セット(ニックネームで呼ばれる「浅倉」と「南」が2名ずつ)登場する。上記リンク先の記事は、社員がカブトムシのように扱われている光景を外部に見せている状況がなんとも不気味なのだけど、こういうことを不気味と思う感覚がその業界では口にしにくい。
上記のような取り組みも、20代30代の人がOB面接というきっかけを利用して学生に手を出すのも、就職活動データを持つ企業が利用者の学生の行動をスコア化して企業に売るのも、そして買うのも、脳内でこの小説に登場するつばさや譲治に似た思考をしていなければできないことじゃないだろうか。東京のわちゃわちゃしたところに住んで働いていると、このように関連付けずにはいられない、思い当たることがいくつもある。
職場で男性が30代の女性の容姿を劣化と表現し、30代の女性が自分のことをBBAと書いて自虐する。そういう場面を見ても当時わたしはその人たちが個人としては好きだったから、反応しないようにしていた。いまもその「考えないことにするアプリ」は残したまま。いつかまた使いそうな気がしてアンインストールせずにいる。社会のOSは少しずつしかバージョンアップしない。自己防衛できなかった被害者の思考は、わたしのこんな過去の経験とリンクする。
加害者の感覚も被害者の感覚も、どちらもわからなくないだけに複雑な気持ちで読んだ。
この本のよいところは、わたしのように身近な経験に引き寄せる材料がなくても、読んでいると歴史の勉強になるところ。中曽根康弘前首相と江副浩正リクルート社会長のやりとりの事例を喩えに使っていたりして、子どものころにはわかっていなかったことを知ることができた。この小説を読んで初めて「キャラメル・ママ」という語の意味を調べた。知っているお店の名前だったから気になって調べた。日本にそんなエピソードがあったとは知らなかった。
この小説の世界では、頭の悪い人(と言われる人)は「どうせ」を頭の中でポジティブな動機づけで使っているけど、それはそれで一周まわってよしとする。頭の良い人はきっと頭の中でもそれを修正する。でも頭の良い人にも修正するのがむずかしい思考がある。自分が蔑まれたとかんじた瞬間から始まる自己弁護の思考は道徳的にバグだらけで、この小説の主題はここにあるのだろう。(この小説では「感じた」が「かんじた」と表記される)
この「道徳的にバグだらけの思考」をどれだけ取り払えるかが人間の知性でそうでなければ畜生であるとインドの書物で学ぶわたしでも、これはほんとうに難しい。ただ、畜生になる前にブレーキはかかる。ある程度のブレーキが人間には搭載されている(このブレーキをインドではダルマというけれど日本語には相応する単語がない)。それを突き破る力は、他者のエゴとの相乗効果で雪だるま式に加速する。
この小説はその加速のありようを創作で補っているのだけど、ほんとうにそんな思考ってあるよな…と思わせるものになっている。
この被害者と加害者のうちの一人はすてきなカップルにもなれたのじゃないか。そう思わせる場面はすてきな恋愛ドラマ。わたしもこれまでの人生で何度か色ボケしてきたからわかる。
そしてここから加害者の心理にわたしは少し寄っていくけれど、人間関係を時間をかけて深めていく中で差別感情に向き合うというのは、正常に向き合い続けるのは、かなりむずかしいことだ。それをさせてくれる力を愛と呼ぶのだろうとエーリッヒ・フロムの本を読んで答えあわせをしたけれど、同じ本を20代前半で読んで現在のような感覚に至ったかというと自信がない。まだ答え合わせの材料が足りていなかったと思う。
生き物にはコンディションがあるから、人間である以上は抑止力を刑罰以外の方法で身につけていかなければいけないのだけど、「相手の気持ちを考える」と言ったって、「相手もまんざらでもなさそうだった」と認識を書き換えてしまえばそこまで。心の面で穴だらけの教育土壌の上で競争をあおれば、そらこういうことにもなるよなぁと、わたしはどこかそれを自然現象として見てしまうところがある。自分も心の面で穴あきの教育土壌の上で頑張ってきたから。
だからこそ、動物ではなく人間であることを忘れないためのいろいろなことを試す。この小説を読むことも、そのうちの行為のひとつになった。
セコいというなら、どっちのほうだと自問するような人間は受験戦争の敗者となる。(第三章より)
加害者のひとりの思考として書かれていた一文。わたしにはこの一文が強く印象に残った。受験戦争を資本主義社会のオーディションと認識している人にとっては、ある意味自然な感覚なのだろう。
この小説の世界に似たホモソーシャル感は同じく東大生の青春を描いた夏目漱石の「三四郎」にもほんの少しだけかいま見えるのだけど、当時は女学生が少ない。あれから110年が過ぎ、このピラミッド構造が平民までジワジワ降りてきて夏目漱石の時代には少数であった女性の大学生も増えて、現代版でものすごくエグいシナリオで煮詰められたものを読んだと思うと、文学も世の中とともに変化している。
そしてなぜわたしは夏目漱石は読むけれど森鴎外を読みたいと思わないのか、この小説を読むことで気がついた。高校の教科書で読んだ「舞姫」の気持ち悪さを、その気持ち悪さだけを強く記憶しているから。(この小説には森鴎外×金髪美女のエピソードがちらと会話に出てくる)
この小説は、昭和の時代から続く社会の中での差別感情がネット社会になったらこうなったという現状を、読みながら振り返れる。
被害者女性が「どうせ」を頭の中でポジティブな動機づけで使っているけどそれでよしとする、自覚しながらそれをよしとする感覚はどこか仏教的に見える。それが彼女の大学の教授の芯にある思考と地続きであることを示す部分を希望と見るか絶望と見るかは人それぞれだろう。ここは、どっちともとれる。この種の諦念でほんとうにいいのだろうかという問いを投げかけられている気がする。
この本を読むことで「一周回ってポジティブ」という状況を生み出す自分自身のメンタルを少し分解できた気がした。この物語の中に、わたしは未経験の怒りを見つけなかった。ここに出てきたような差別感情を抱えた人に見つからないように、見つかってもうまく「圏外」になるように立ち回ろうとしてきた。エリートの目に触れずそこそこ空気のいい場所で呼吸をしていくことが処世術として染み付いている。
「彼女は頭が良いから」と言いながら巻き込んでいくやり口も、それはただの逆パターンで選民思想を持つ人がやる別の手法だから、そこにも気をつけていかねばならない。大なり小なり日本の女性の多くはこの種のサバイバル術を身につけているのではないかと思うのだけど、どうだろうか。
この被害者はたまたま公衆電話と警察署が近かったから助かった。なのに誹謗中傷を受ける。不幸中の幸いでは終わらずに、また不幸を味わわされる。小説には書いていなかったけれど、殺されていればこの苦しみは認められたのだろうかと、ちらとそんなふうに考えたりもするのではないか。追い込まれている被害者の思考を想像すると、とてもしんどい。
- 作者: 姫野カオルコ
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