うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

新しい道徳 北野武 著

古本屋さんで手にとって読みはじめたら止まらなくなりました。

サブタイトルになっている

「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか

という一行に尽きる内容で、著者には "自分の人生は自分で楽しくするものだ" という考えがあり、他人に安心させてもらいたがる行為についてユーモラスにいろんな角度から切り込んでいます。

 

 

このように、章の小見出しがすでに結論になっています。

「今の世の中じゃ、ウサギは途中で昼寝なんかしない。他のウサギと競争中で、カメに構ってる暇はない。」

 

エデンの園のように、誰も彼もが食べ放題みたいな世界だったら、戒めなんて必要なかったはずだ。」

 

「誰かに押しつけられた道徳に、唯々諾々と従うとバカを見る。それはすでに昔の人が経験済みだ。」

 

わたしは子供の頃、著者がなんでよくテレビに出て人気があるのかわかりませんでした。あれは大人向けで、社会に疑問を持つ人が支持者であったのだと今になってわかりました。

フライデー事件の後の記者会見映像を見ると、複雑な正義感を知的に刺激するのが巧みで、読書家であることがちょっとした喩えに現れていて、そりゃ子供が見たってわからんわけです。

 

 

それから何十年もたってわたしは小学生からおばさんになって、昨年たまたま「教祖誕生」という小説を読み驚きました。

そのあといくつか著者の本を読みながら、あることに気がつきました。わたしの身近な人の発言と似ているのです。

 

  • 最初にヨガを教わったインド人の先生と日本社会へ向ける視点が似ている
  • わたしの母と死生観が似ている

 

みんな同じくらいの年齢で、三歳以上の差がありません。

 

 

この本の「昔の人の性根が据わっていたのは、少なくとも今の俺たちよりは、自分の死について具体的に考えていたからだ。」という章に書かれていた以下のコメントは、わたしの先生が社会のニュースに対してつぶやいていたことと似ています。

 誰かが殺されれば、ニュース番組は殺人の原因を克明に調べ上げ、なぜ殺されたのか、なぜ殺したのかを糾明せずにはいられない。こういう犯罪を防ぐには、どうすればいいかを口から泡を飛ばして話し合う。

 

(中略)

 

 犯罪防止や病気の予防なんていうのはただの言い訳で、死を視聴者とは関係のない特別な現象だと説明して、安心させるのが本当の目的なんだろう。

 まるで死を世の中から隔離しようとしているみたいだ。

わたしの先生は「精神鑑定で責任能力の問えない状態と判断された」とされるニュースに対し「いつもこれね。またやってる」と話していました。

精神に特例はない。生き物が活動しているのだから。と、わたしは当時先生の言葉を解釈したのですが、その視点を持ち続けるのは、この社会では胆力がいることです。

 

 

この本の「誰かに押しつけられた道徳に、唯々諾々と従うとバカを見る。それはすでに昔の人が経験済みだ。」という章で語られる「実力主義の時代と終身雇用の時代では、道徳は変わる」という話は、この本が出版された2015年の時点からここ数年で急速に動き、コロナのときにいろんな考えがあぶり出されたな、と思います。

 武士が君主に絶対的忠誠を誓い、忠臣は二君に仕えずなんていうことをやかましくいうようになったのは、江戸時代になってからの話だ。その前の戦国時代は、「士はおのれを知る者のために死す」で、自分を高く評価してくれる主君がいれば、二君でも三君でもどんどん仕えた。

 実力主義の時代と終身雇用の時代では、道徳は変わるのだ。

江戸時代のような価値観に戻ることで安心したい人が増えているのが、いまの実際の気風だと思います。緊急事態宣言のときに「こうなると長いものに巻かれたくもなるよね」と、わたしも友人と話したことがあります。

 

 

エデンの園のように、誰も彼もが食べ放題みたいな世界だったら、戒めなんて必要なかったはずだ。」に書かれていることは、わたしがよく思いを巡らせることでした。

 だいたい、「何々をしてはいけない」といういい方をする。そうじゃないのはモーゼの十戒の中の「父母を敬え」くらいだ。

 人間の道徳は基本的に、やってはいけないことは何か、というところから始まっていた。それを決めなければいけなかったということは、それまでの人間は、けっこう簡単に人を殺したり、犯したりしていたってことかもしれない。

戒めがあるということは、そこを破ると秩序が乱れ、大切なものが毀損されてしまう。

そこから、大切なものは立場によって違うことが見えてきて・・・すべての人にとって「大切なもの」として父母が置かれている教えもあれば、父母を肉体の製造担当者のように捉える教えもある。

 

 

この本の次の章は「道徳は自分で作る」で、さらに最終章のトピックは「これから先は、個人の道徳なんかより、人間全体の道徳の方が大切になる。」というSDGsなモードで話が進んでいきます。

この展開に強引さを感じて、出版年との関連性を見てみたら、20159月の国連サミットの時期と重なっていました。

それでも最後の一文が

 まあ、俺にはどうでもいいことだけど……

となっているのは、著者らしい正直さかな。

最終章の少し前まで「老人には阿片窟を開放して、気持ちよく死んでいけるようにする。」「最高の性教育は、出産シーンを見せてやることだ。」と、かなりいい勢いだったので、最後は急ブレーキを踏まれて首に違和感を覚えるような、そんな感覚になりました。