うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

うまくいっても、いかなくても、わたしはわたし

わたしはここでいくつも旅行記を書いていますが、ブログを読んでいる人から「わたしも遠くへ行ってみることにしました」と言われるとうれしいです。自分でいつのまにか自分を縛っているような、そういう状況から少し離れるきっかけになっていたら、うれしい。
そして先日、思い切ってヨーロッパへ旅行へ行ってみたという人のお話に「それ、それがいいのよね…」とうなずくことがありました。



  予定通りにいかないトラブルに遭ったときに、自己を感じる



途中の乗り継ぎが予定通りにいかず、想定外の時間の使い方をするという経験談をきかせてもらいました。
あまり英語も通じないなか、自分なりに状況をのみこみ、時間を過ごしたことを振り返り



 「ああ、なにがあっても、わたしはわたしなんだなと思った」



と。
「それ! それよー! それなのよー!」と、前のめりになるわたし。
想定外の事態を許せないと怒っていられるのは、怒れる条件が揃っているだけで、まぁ言うなれば、甘えたい。怒りというのは淋しみや甘えたい気持ちから起こっていることがほとんどじゃないかと、そういうときに気づく。
自分が寂しがりであるということや、誰かに寄りかかりたいのだということをありありと自覚すると、他人と接したときに感謝の笑顔があふれるように出る。
そのときに湧き上がってくる感謝は、日々の世間体の中で役割分担と名前が配置された「◯◯さん、ありがとう」ではなくて、「そこの生きもののユー、よう知らんけどあなた、ありがとう!」です。ふだんの「ありがとう」とはなにかが違うんですよね。
そして、ふだんの「ありがとう」に空虚さを感じるとき、日々の世間体の中で固定化されている(ように感じる)役割分担と配置が、感謝の気持ちを曇らせてしまっているということに気づく。



そんなことを思うわたしはこの夏、図書館で開催されていた、あたらしい道徳の教科書の展示を見てきました。
小学校1年生用から6年生用までで少しずつ濃度は濃くなっていくのですが、「感謝の気持ちを持ちましょう」という道徳教育の言葉やそれを伝えるための勧善懲悪っぽいストーリー、ヤンキー更生物語に似た話がいっぱい。なんだか見慣れたものでした。
そうだなぁ、ずっとそういう教育を受けてきたなぁ、と思いました。



そしてヨガを学ぶようになったいま、思うのですが、
こういうのはインドのトリグナと紐づいた考えかたでは



 「感謝の気持ちを覆い隠しているものを脱ぎましょう」



となります。
わたしは大人といわれる年齢になっても、「感謝の気持ち」について自分の中身を深く掘り下げたことがありませんでした。
子どもの頃よく「なんであんたはそうなの」と抽象的な言葉で叱られていたことが骨身にしみていて、それはさまざまな方向へ拡がり、たとえばドラマや本などで「素直になれない」「素直になる」というフレーズを見聞きしても、わたしの場合は「素」が「直」ではないから、規格外なのかな…と、そんな思いが定常化していました。


でもインドの古い教典を読むと、そんな自分でも「脱げばいいんだ」ということになる。タマス質の闇に蔽われている状態だけど、浄化できるという。
この考えに触れたとき、



 わたしも、仲間に入れてもらえるの?!



と思いました。
それまでは



  "感謝の気持ちを忘れない、素直な人間" という衣を、

  みんな、どこで手に入れてきてるのだろう…。

  わたし、見つけられない。

  見つけられないまま、大人になっちゃった。

  ・・・どうしよう。



と思っていました。
それが、何年もかけて、少しずつほどけていけるようになりました。わたしもまだ…、というか死ぬまでずっと、旅の途中。
なので先に書いたような「なにがあっても、わたしはわたし」と思えた瞬間の話を聞くと、人生の旅の仲間に出会えたようで、とてもうれしい気持ちになります。