少し前のことになりますが、このブログで「アガスティアの葉」という本を知り、気になって読んでみましたというかたがいらっしゃいました。そのときに、おもしろいことを言われました。
そのかたはアガスティアの葉に書いてあることを知れるものなら知りたいと思ったそうで、「うちこさんは知りたくないんですか?」と聞かれました。
その時のわたしの以下の回答に、そのかたはとても驚かれたそうです。
わたしは帝王切開で産まれてきたから
出生時間を細かく問うタイプの占いって
なんか自分には関係ないわーって思う
こういう視点が意外だったそうです。
わたしの考えにはもちろん反論のしようもあって「そこで切り開かれてこの世に出てきた瞬間!」というふうに、なんなら多少ドラマタイズしてみることも可能です。人はそのときどきで、信じたいものを信じようとするエネルギーに強く動かされます。
これがインド旅行で知り合った人との会話であれば、わたしのような考えかたは否定されることのほうが多いと想像します。今さらながらやっとそういう場面がわかってきたので、現在のわたしはこういう話題そのものを避けたりしますが、このときの「アガスティアの葉」についての質問には、するっと素直に答えました。
目の前にいる人が、別の視点を認めてくれる人でよかった…。わたしは別のボディの視点を取り入れられるということはボディひとつ分の人生よりもきっと豊かだから、できるだけ深刻になりすぎずに話せるほうがよいと思っています。
わたしがヨーガやサーンキヤに惹かれるのは、そこにあるのが主義主張ではなく「視点」の教えだから。
便宜上「哲学」と訳されているし、わたしもお勉強的なインプットじゃないと聞く耳を持ちにくい人(=多くの同世代の日本人)にはそう話すけれど、そのもとになるダルシャンという言葉は「視点」と訳すほうがしっくりいく教え。「ヨーガの哲学」というよりも「ヨーガの視点」です。
この教えには、モノゴトの見かたってこんなふうに定義・説明できるんだ…、そしてその実践を技術として伝達できるんだ…という驚きがあって、それは受験のために猛練習をした鉛筆デッサン以来の実践的感動。ヨーガの思想について学ぶ時間は、心の中のおもしろい数式を見つけたような感動が続きます。
世の中にあふれる意見・主張の数々のほとんどはそのとき信じたいものを信じるために生まれたものだろうと思って見ていれば、意見や主張と人格をそのままイコールで結びつけることはなくなり、その人の言っていることが変わっても責める気持ちは起こりません。ああ視点が変わったのだな、どんな経験を経たのだろう…となる。責める気持ちは、それはそれで相手に対する自分の欲求。もしかしたら攻撃性が余っているのかもしれません。運動して燃やしましょう!
・・・おっと。油断した。油断するとすぐに筋肉質になっちゃう(^^;)
同じボディに乗って生きているわけではないからこそ、ほかのボディの目で見えたものを共有できるほうが豊かだし、その媒介となる表現力もないがしろにはできない。不器用でも、ダサくてもいいんだという方向に振り切っていくのが「修行」なのだとしたら、それは豊かではない道だよなぁと、いまのわたしはそんなふうに考えます。
── ということを、今日は書きたかったのでした。