うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「ちょちょっと、書くだけじゃん」が価値としてどうなのか実験して考えた

今年の前半に「このブログであなたが開催しているヨガクラス紹介を掲載したいかたはご連絡ください。わたしがレッスンを体験しに行きます」という趣旨の告知をしました。そして実際にやってみました。今年の前半はそういうことのできるリズムで生活をしていたので、せっかくなのでやってみたのでした。(現在はできないので告知も終了しています)

 

移動とページ作りに時間と手間がかかるので、せめて移動やクラス参加のための実費をご負担いただきたい。そんなわたしの正直な思いを理解してくれる人って、そもそもいるんだろうか…。そんな気持ちで自分なりに考えて告知をしました。ご連絡をくださったかたのうち、双方の条件を合わせられる案件が発生したので、一度だけ実施することができました。

 

場の価値と欲について考えるきっかけがあった

自分の活動やイベント・商品を他人の管理する場で告知する行為は、「広告」と同じ効果を狙うものといえないだろうか。ずっとヨガのことを中心に綴っている場でヨガに関する告知をする行為は「ターゲティング広告」や「セグメント化された広告」と同じ効果を狙うものといえないだろうか。わたしは過去にこのように考えたことがありました。
以前わたしのヨガクラスの最後に参加者のひとりのかたが、わたしとまったく関係のないヨガワークショップのチラシを更衣室で突然配ったことがあり、そのときから「効率的な場を狙うもの」を意識するようになりました。それは練習後に、みなさんの帰りがけの着替えの場で突然はじまりました。わたしにそのチラシは手渡されず、参加者のかただけにさっと配られました。

パン屋さんの外で別のパン屋さんのチラシを配られたパン屋さんの気持ちです。そんなことが、過去に一度ありました。
その数年前にヨガスタジオの更衣室で補正下着の営業をする生徒さんを見かけたときにも少し似たことを思いました。この悲しみについては、2年前にも書いています。


「効率的な場を狙う」という考えかたは、普段は掘り下げません。他人の欲を類推しても確認のしようがありません。ヨガの考えでは、向き合うべきは自分の欲。そこにフォーカスして考えてみたときにどうか。ここを整理しておくと、今後の判断材料になります。

 

 

数字を計測して自尊感情を整理した

上記の考えから、このブログは一般的なウェブメディアの記事広告と比較したときに数字上どうなるか、訪問者数やページビュー、その地域分布を計測してみました。

ここからは少し専門的な話になりますが、ウェブメディアの取材記事広告の近ごろの状況を見ると最低1万ページビュー保証で売っているところが多く、知名度のそんなに高くないサイトでも35円~50円のページビュー単価で売っているのをいくつかの媒体資料で確認しています。


上記はライターもカメラマンもプロのかたが制作する記事広告の話です。
わたしは立派な「ウェブメディア」を運営しているわけではないし、発信者としてはブランド力のない個人。文章もカメラも技術的にはアマチュアです。権威的価値を生むわけでもないので、上記と同等の価値とはもちろん考えません。

 

わたしがかねてより考えていたのは、数万円の広告出稿を試すくらいなら、数字上同じ効果が出せると言えるかどうか。
これはわたしだけの感覚ですが、実施して試すことで自分の気持ちに変化がありました。知人からの「ちょちょっと、書くだけじゃん」というノリと圧力で打診される話題を、今後は心理的にスルーしやすくなる。

わたしはこういうとき、わりといちいち試算をします。(職業病です)

 

 

根本にあった悲しみの性質をつきとめた

なんで今回こういうことをしてみたか。それは過去に、書きたくないのに書いたことがあったからです。
数年前に、抜き打ちで食事代を支払われ「あの日行ったお店のことは、いつになったらブログに書かれるのか」と後日突然催促されたことがありました。驚きつつも、なんとなく怖くて、あまり考えずに書いてアップしました。
そのかたはご自身の活動の告知をしたいわけではなく、ただ載りたかっただけのようでした。感情の種類としては、街にテレビカメラがやって来たらわくわくしちゃって気がついたら画面に向かってピースしながら最前列に割り込んでいた。そういう感じでしょうか。そこまではわからなくもないのですが、先に食事代を支払われているのが、わたしとしてはどうにも…。


そんなことが過去にあったので、わたしのなかにわだかまりの生じない流れでやったらどんな気持ちになるか、いつか試してみたいと思っていました。
わたしはどこかへ行くとき、その目的の前後にある環境や背景(土地・内装・メニュー・運営者の発するメッセージなど)を見て楽しんでいます。なのでこれ(抜き打ちでおごられて書けと言われる)をやられると、自分が「書く自動販売機」のように扱われた気持ちになります。とりあえずお金入れといたから出てくるよね、出すよね、と潜在的に思っていなければできない行為じゃないかと。

 

 

どんなに小さくても、価値を作るのは人間の体力

ウィンウィン(win-win)というのは、負担のないリソースや余らせている在庫や無理なくうまれた信愛の感情、そもそも心意気があったうえでのことじゃないか。他の仕事でも、わたしは心の中でこのようなツッコミをしています。わたしは自分の体力を余りものとは思っていないので、「ついでに」という受け取りかたができなかった。そんな自分の過去の思いを確認しました。

今日の話は、お店をやっている人が「チラシを置かせてください」と頼まれるときの葛藤と似た話かなと思います。「ただ置いとくだけじゃん」も「ちょちょっと、書くだけじゃん」も、「だけ」かどうかを依頼する側が決めるって、おそろしいことです。
頼まれる側は、断わるときに自分が不寛容でケチで高慢じゃないだろうかと自責するジレンマを抱えます。引き受けたら引き受けたで、自分の場所が一時的に愛せなくなります。

そしてこのジレンマから自分を解放するために根拠を立証しようとすると、ものすごく手間がかかります。わたしは今回実際にやってみてこの考えを掘り下げておしまいにすることができたけれど、チラシを置いてくれと言われるお店はウェブのように数値も計測できないだろうし、どういう気持ちの処理をしているのだろう。

 


わたしは今回のことで、"自発""やらされ" の間にあるものを見直し、「感謝」「つながり」「ご縁」など、ヨガについて書く人の文章に頻出する表現(≒お線香のCMによく使われる語)の幅と奥行きを感情的に掘り下げました。
実践しながら深めるというのは準備も含めてすごく手間のかかることだけど、そのプロセスの中に考える材料がたくさんありました。「感謝」「つながり」「ご縁」。これらの言葉の使いかたに、今後ますます意識的になれそうです。もちろん、よい意味で。

 

 

<余談>今日の話は、この話ともちょっと似ています。