そうなのよ、多様性ってめんどくさいのよ! と思いながら読みました。この気持ちを整理するのにこれ以上の教材はないんじゃないかというくらい、すばらしくおもしろい本でした。
年長者が若者の存在を意識して「これからはそれじゃいけないと思うのよ」と言うのは寛容キャラの演出? 我慢アピールの新種? いずれにしても、それだけでは多様性を認めていることにならないし、なんならむしろ心根が漏れてる。そんなふうに考えてきたことがぎっしり詰まっていました。
多様性を認めるということは、地雷だらけのめんどうな制御がデフォルト化すること。そして、そこで犯す失敗を認めること。自分の中にある、自分自身を支えている差別感情に向き合うこと。事前に「これからは~」なんてリスクヘッジをする人ほど、きっと地雷を踏んだら逆切れせずにはいられない、そういうもの。
この物語は親子や夫婦、友人、学校、地域の人とのエピソードのなかに「無知とバカは同じではない事」や「シンパシーとエンパシー」といった重要なトピックが練りこまれ、同時に「政府の大小と自己責任」「所得格差がそのままスポーツ格差になる」というイギリスの現実が描かれています。しかも、ちっとも説教くさくない。著者がもともと音楽ライターだったこともあってか、いい感じにロックで乾いてる。
身近で起こることについて「わざと喧嘩させようとしている」と子どもが言うまでの流れも、適度に助走が設定されていて嫌味じゃない。演歌にはならない。なのに何度も泣かせる。号泣よー。
子育てをしながら自らを振り返る著者のシンプルな言葉に何度も胸をつかまれました。
この胸がすくような思いというのはどこから来ているのだろう。
これをただの自覚で終わらせず、その経緯を探っていく。この本はすごく売れているらしいのだけど、実際めちゃくちゃ社会勉強になる。いい。すごくいい。
ちょこちょこっと入る社会背景の解説もいい。
メディアが使う政治用語でいえば、この「何やかんや言っても応援してしまう感じ」のことを市民的ナショナリズムという。民族的ナショナリズムに対抗する軸として使われる言葉で、数年前、スコットランド独立投票のときにさかんに議論されたコンセプトだ。
(6. 地雷だらけの多様性ワールド より)
これは大阪都構想の選挙の頃にニュースを見ながら、自分は感覚的に圏外だな…と感じたことに近いものだろうか。
感覚に訴えかけるという手法の奥まで自分で考えながらニュースを見るのは、かなり心の整理に工数がかかる。めんどくさがってはいけないのだろうけど、めんどくさい。でも残念ながら政治はこの「めんどくさい」をうまく操る者が勝つ仕組みになっているから油断できない。・・・というところまでは、認識している人が多いだろうと思う。わたしもしょせん、そこまでのレベルだ。
著者はさまざまな境界についてこんな捉えかたをしています。わたしはこの一文を読んだとき「それ!」と声が出そうになりました。
「表出する」ということと「存在する」ということはまた別もの
これなんですよね…。
ひとつの現象にスポットが当たるとき、その光の当て方や角度設定にどんな意図や邪気が潜んでいるか。
わたしは褒められるときに当てられる光の8割は屈折した光で、まっすぐに褒められることは2割ぐらいだと常日頃思っているのだけど、まさにそれはこの本に書いてあるようなこと。こういう考えを素直じゃないとかひねくれているとか悲観的だとか言う人の暴力性についても、きっともっと語られたほうがいい。
なにかをすばらしいと思うときに、なにかを蔑みたいと思う気持ちがそれ以上に含まれていないか。わたしがこの本をすばらしいと思う理由には、冒頭に書いたような「これからはそれじゃいけないと思うのよ」というフレーズを日常会話にしれっと織り込み始める人への怒りが含まれている。自身の内省をショートカットする雑さをバレてないことにして、頑張ってきた年寄りをいじめるのかと開き直る人への侮蔑の気持ちがある。昔バカチョンカメラって普通に言ってたよねと詰めてみたくなる。
わたしのなかにも、いつもこういう怒りが静かに渦巻いている。そしてたぶんそれは、隠していてもしっかり漏れている。自身の失敗談も隠さず示す著者に導かれて、自分のなかのそれに向き合うことができた。
この感情はどこで埋め込まれてきたのだろうと思うほど、実際の自分には関係のない、怒りに似た感情が日常にはたくさんある。テレビのワイドショーは実際の自分に関係がないという事実を置き去りにしたまま怒ることのできる人向けに作られているけれど、そういうことはリアルな会話の中にもたくさんある。
自分の好悪の情動に向き合うことを避けると、結局いろいろつじつまが合わなくなる。