うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

高瀬舟 森鴎外 著

その場にいる登場人物は二人だけの短編。森鴎外の小説を読んでみたくなり、読みました。
この物語はたまに倫理的葛藤を起こさせる事件があった時に「高瀬舟みたいに〜」と引用されることがあるので、どういう題材を扱った小説なのかまでは知っていました。


読んでみたら短く、すぐ読み終わる短編。わたしは庄兵衞が純化する瞬間を表したような以下の一行と、そのすぐ後の段落に、妙にウルっときました。

 庄兵衞は喜助の顏をまもりつつ又、「喜助さん」と呼び掛けた。

わたしは、尊敬と感謝はほかの感情と少し違って、それが自分の中で顕現する過程こそがその人を表すと思っているのですが、わたしがそんなふうに考えるまでに至る長い長いあれこれを短編で要約されたような、そんな文章。

 

同時に、これは嫌な話だなとも思いました。刑務所で暮らすほうがマシという考え方をする人がいる社会の話です。喜助を聖なる者のように見ることに対する強烈な気持ち悪さは、必要な社会性を備えていることの証左でもある。喜助を肯定することは、いわゆる「無敵の人」を肯定することになるのかという葛藤が起こる。


わたしは学生の頃に国語の教科書で読んだ『舞姫』を気持ち悪いと思った記憶が強烈にあって、以来なんとなく森鴎外を避けてきたのですが、当時のわたしは少女。
もし『舞姫』ではなくこの『高瀬舟』を読んでいたら、最初から森鴎外を尊敬していたかもしれない。いや、そんなに単純でもなかったかも。人間には記憶力があるから、こんなふうに人格のイメージに長い年月が薄く関与してしまう。何を書いたかではなく、誰が書いたかになってしまう。これは損なこと。

いっぽうで「何を書いたか」になると、それはそれで、読んだときの自分の理解力に頼ることになる。自信があるとは言えない。少女の頃のわたしは、この『高瀬舟』の気持ち悪さを察知し得なかったと思うから。

印象を固定することがもっとも愚かであると思い知らされるような、そんな思考が廻りました。