先日、拘束的な状況のなかでがんばっているヨガ仲間が、久しぶりに練習にきてくれました。
話せるときと話せないとき、いや今はそんなことは忘れていたいのだと思うとき。暮らしにはいろいろなモードがあるから、わたしは人を迎える場のありかたはいつもトーンを一定にしています。彼女は会えない間もずっとこのブログを読んでいてくれたそうで、ブログの更新も含めて「いつも同じトーン」であろうとする理由を、理解してくれていました。なにか、似たような苦労をしたのかしら。わたしたち。
彼女は数年前にインドで「ブログのうちこちゃんじゃない?」と声をかけてくれた人で、今でもその日のことをよく覚えています。
この練習の日、ほかの人のなにげない話のなかに、気になるフレーズがありました。
「" 内面にばかり向かっていて、いいのだろうか "という気持ちが起こる」という話。わたしもその思考の折り返しを何度も往復していて、その折り返しに疲れたとき、ふとインドにいたときのことを思い出します。冒頭の彼女と数年前に出会ったときも、まさにそんなことを考えていた。
「これって現実逃避だよね…」という、自分を責めるような気持ち
実際、旅行はいつだって、なかなかの現実逃避。でも、それだけじゃない。
その頃の経験でいまわたしがいちばん収穫と思っていることは、自分の思考のベースとなるインプットのバリエーションに目を向けるきっかけを得たことです。その頃の経験は、一度だけ「多国籍版・宗教ディスカッション」というトピックでリアルタイムで書いています。わたしはインドで数ヶ月、いろんな国の人と共同生活をしていたことがあります。
日々の暮らしの中で起こる「いいのだろうか」という気持ちは誰にでもあって、その罪悪の感じかたの「色」が違う。さらにそこにトーン・明度・彩度などのニュアンスの違いが出てくる。でもほとんど、その色が発生するタイミング自体は変わらない。なのに、色の違いを捕まえて善悪の話をしようとする。「ある」は「ある」で共通なのに、先に違いを捕まえようとして、そこで分けようとしてしまう。
ひとまず、ざっくり分けたい
こういう気持ちが発動するのが人間だ、ということを、今になってやっと言語化できるようになってきました。
さくっと内面に向かっては、ひとまずざっくり分けたときにチラと見えたなにかのせいにして戻ってきて、外面と内面をアメリカン・クラッカーのようにカチンカチンやっていた。いまはそういう物事への向き合いかたを、少し批判的にも肯定的にも見られるようになってきたように思います。あれから5年もかかっているけど、こういう意識の筋力のようなものは、じっくり長く続けないと身につかない。チラと見えたなにかのせいにして、ひとまず終わらせたくなるものだから。
アメリカン・クラッカーは自分の中に基本機能としてあるので、他の人も同じようにそうなる気持ちが、どんなときもわかります。その音が聞こえたら「鳴るよね〜」と共感します。それが未熟だとはまったく思いません。かつてのわたしはものすごい速さで、ものすごく乾いた音の鳴らしかたをしていたと思います。
だから、できればなんでもうなずいて慰めたい。が、迷う。迷うのです。求められる共感にもいろいろあって、「鳴るよね〜」まではセーフ。でも「同じ音を立ててくれ」となると、苦しい。それを要求されると、苦しくなります。見ていない事実や知らない人の批判を求められると、苦しくなります。
苦しいと、なにを考えるか。
最大公約数的に便利な仮想敵をこしらえて処理できないものかと考えます。わたしは「カルト教団の教祖になる人って、ここで負けてしまった人なのかもしれない」と、そんなふうに思うことがあります。
「同じ音を立ててくれ」というのは無理なお願いだ。
それは、わかってる。
でも、その耳の機能を共有できているだけで、うれしい。
うれしいんだ〜。
わたしは「うれしい」に至るまでにこんな微細な反転の要素を含んでいるとき、たまに泣けてきます。
ただの身体的な気持ちよさの共有や、なつかしみだけじゃない。そこにはなにか、苦しみを共有するための「存在」がある。インド人が「アートマン」と名づけた存在は、これのことじゃないか。こういう感じが、きっとこれから宝になっていくのだろう。なってほしいな。なるにちがいない。なって。成らすのだ!(←意志をまとめるプロセス)
この日は、帰ってからそんなことを考えました。