先日、久しぶりに食事処でお会いした人が、わたしに聞いてみたいことがあるとおっしゃるので、なになに? とお話を伺いました。
内容は端的にいうと「むすっとした顔の人に、つい気持ちが引っ張られてしまう」というお悩みでした。その人は創作ワークショップの講師をすることがあって、わたしがむすっとした人を見たときにどうしているのかを聞きたかったとのこと。
いまとなってはどうもこうもないな… と思いつつ、十数年前から数年前までのことを回想したら、「いま」どう思っているのかがそのまま口から出てきました。
不機嫌そうな顔の状態がデフォルトの人って、けっこういるもんなんだなって
何年かやった頃に気がついた。
と話しました。
そうしたら、近くのカウンターに座っていた人が
そうなの!
とおっしゃる。このかたは、過去にダンス講師をされていたのだそうで、ご自身の経験談を重ねて話してくださいました。
表情も思考の癖もポーズの上達も、一日や二日で急にできあがるものではないものは、その日だけの関係じゃわからない。毎日会えるわけではない、たまにしか会えない。だからわたしは、行為で見ます。話題のチョイスも行為として見ます。
不機嫌な態度で場を支配しようとする大人に遭遇する機会は日常でも仕事でも経験してきたし、30代の頃はわたしも態度で注意を得ようとするような的外れな行為をいまよりもたくさんしていました。いまでもあれはどういう心の状態だったのだろうと振り返ることがあります。客観的に見たらものすごく病んでいたのではないか、ドーシャの乱れでは片付かない領域まで行っていたのではないかと振り返って思うことがあるのです。なので、そういうのは運やくじ引きみたいなものだと思っているところがあります。
だからこそ、そういう状態の人と「不機嫌そうな顔」をいっしょくたにしてはいけないと、そう考えています。顔のしわが固定化されてくる年齢に自分がなってきたというもあり…。さらには、逆もあるんですよね。やさしい顔がデフォルト化しているけどあら探しをしするのが思考のベースということもある(接客業やコンサルの人はこれがうまい)。
わたしの場合、インドではとくに英語がうまく話せないことで眉をしかめたり固まっている場面が多いはずです。親方からスーパー・サイレントと言われてしまうくらい、雑談の場面では「うんともすんとも言わない無反応な奴」です。
でもその瞬間以外は、とくにアーサナの練習は楽しく繰り返し参加しているし、わたしの気持ちは練習への向き合いかたで示せばいい。自分が生徒のときにそれで先生とコミュニケーションがとれていると感じるので、自分が講師側になるときもそのように考えます。
接客業務中でもないのにミッキーマウスみたいに口角あげてなきゃいけないなんて、しんどいしね。ぬいぐるみじゃないし。