うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

会う口実をずっと考えてきた

6月に神戸・7月に名古屋でヨガクラスをやって、初対面のかたも含めてこのブログを読んでくださっている人とお会いして、それをきっかけにさまざまなことを考えました。
かねてより探ってきた「ヨガをする人同士の関係性のかたち」を確認していくなかで、あまりにも基本的な前提がありありと浮かんできました。

 

 

 わたしたちには、会う口実が必要だった

 

 

おいでくださる人にとっては、わたしから経験や練習機会を得るかのようでありながら、実際一緒に練習しているときに共有しているのは、これまでエイヤッとやり過ごしてきた心のささくれを整える、そういう時間。


日常の中でエイヤッとやり過ごす瞬間にあるのは、集中と散漫の境界に入り込む、頭のなかで保留にしているもの。一人で向き合って掘り下げるには少々忍耐力のいる、なんだか疲れそうな課題の数々。本来ならば誰のせいにもせず主体的に乗り越えたいさまざまなこと。
わたしは東京でも地方でも、これまで組み立ててきたクラスの根底に「なんで自分はヨガの練習をやめないのだろう」という問いがあります。楽しい・気持ちいい・スカッとするという感覚の再現を求める単純さも自認しつつ、それだけでない拠り所のようなものについて、やっとここ数年で少しずつ言語化できるようになってきました。

 

 

 自分を堕落させず、くいとめてくれるもの

 

 

わたしは自分を大切に思ってくれる人と一緒にいるときにも、大勢でワイワイしているときにも、ふと「滑り落ちそうな」感覚がやってくることがあるのですが、これには名前がありません。口も目元も腹筋も笑っているけれど、なんか生きること全体から降りたくなるような、そういう瞬間。


わたしは心に残る本を読んだとき、つるつるのタイヤのようになってしまった心に溝を刻んだような、そんな気持ちになることがあります。とっくの昔にこの世にいない人が書いた文章を読んで、そうなる。これはヨガの練習の中でときどき感じるものとも似ています。日常で利害関係のない間柄の人が共有する時間だからこそできることって、意外と大きいんじゃないか。


睡眠は貯めることができないから補充するしかないというけれど、わたしは心に溝を刻む作業も、補充しかないんじゃないかと思っています。
なので「やりますよ! だから来て!」というときには、主にはそれをする口実を作っているような、わたし自身のなかに仲間を強く求める力がある。その源泉と流れを感じるようになりました。

 

 

今年は神戸の帰りに、四国の小さな町「引田(ひけた)」に一泊してから帰ってきました。
そこは県内でも過疎の進んでいる地域だそうで、町を歩いて道を尋ねようにも人が見当たらない場所でした。商店に入って道を尋ねてみたら「よくぞ聞いてくれました!」とおじさんがその気持ちをそのまま声に出して道まで出てきて、角まで歩いて案内しながら「ところで、わたしはついていかなくて大丈夫かな?」とおっしゃる。めっちゃニコニコしてる。それをきいて「まーったく、もー。ヒャハハー」と後ろでおばさんたちが笑っている。
旅の途中のこういう瞬間に、わたしは心の堤防が決壊しそうになる。決壊しながらも言いようのない種類の涙をこらえ、同時に「これは都会じゃセクハラだのといわれちゃいそうな方向のやつだ…」という、なにかを先回りしたような喪失感を同時に味わう。これは、これはありなんだよ!ぜんぜんありなんだ!というポジティブな主張が立ち上がる。


そのあとの町の移動でも、あまりにも人がいないので同じ駅で降りた人を捕まえねばと思って行きたい場所を訪ねたら「途中に(自分の)うちがあるから、じゃあそこまで…(案内する)」と言いながら一緒に1キロ、目的地まで歩いてくれたおじいさんがいました。歩きながら「車だったら、ひゅーっと、すぐなんだけどね」とおっしゃる。普段はお車なんですかと尋ねたら「今はほら、高齢者の運転が問題でしょ。だからね…やめてるんです」とおっしゃる。道中わたしに家族構成や年齢を尋ねることもなく会話に気をつかう、健脚でしゃっきりとしたこのかたも、属性では高齢者に入る。こんなに車どころか人のいない場所でも、そういうことに気をつかいながら暮らしている。ここでもわたしは、なにかを先回りして喪失感を抱くのでした。

 

こういうことは、きっとこれからもたくさんある。
時代の流れの感じかたは人生のフェーズによって変わっていくけれど、いまわたしは上の世代と下の世代のド真ん中にいる。未来のために残さないほうがよい慣習が糾弾されているのを見て、やっと滅びるときがきたかと思うこともあれば、昔はよかったと言わないかわりに先回りして喪失感を味わっていることもある。
ここのところわたしは「さみしい」という言葉を使っているけれど、それはひとりでさみしいという意味に加えて、社会の動きと自分の変化の差分を見たときに漠然と感じる「さみしさ」でもある。


インド旅行中にたまに涙が出てくるのも、目が合った人に道を尋ねて「よくぞ聞いてくれました!」という反応をされたとき。ウェルカムなわけないじゃないか!という態度にたじろぎながら、それが今いちばん欲しかった反応だと気づく。普段わたしは見栄を張っているのだろうか。・・・これは見栄なのか? なにを恐れている? この気持ちはなんだろう。道くらいさっと聞けばいいのに。
今年の夏は、そのまえに行ったインドでの経験との連なりで、こんなことを考えました。心を砂漠にせず、種と水をまいていこうという気持ちが湧いてきました。

 

夏が過ぎたら読書の秋です。9月の新月の日にギーター読書会を久しぶりに東京で開催します。秋になったら広島と福岡へ参ります。福岡開催は初めてです。どうぞよろしくお願いします。