うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

口先と指先だけで世の中と関われるかのような思い違いをしないために、手のひらも使うようにしている


わたしは10年以上ヨガの練習をしていますが、脚を使うメニュー・腕を使うメニューが偏らないように、両方やるようにしてます。腕を多く使うメニューとして朝はアシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨーガを、そのほかに週に何度か行くヨガスタジオで夜にハタヨガやパワーヨガなどを受講しています。


そんな練習と平行して。
わたしは20年ちかく、IT業界あるいはそこに近いところで仕事をしています。
時代的にぐわっと伸びた産業のなかに身を置いたことで、わたしはこれまでに多くのカン違いをしてきました。業界の景気がよかったこともあるのですが、
ひとことでいうと



 口先と指先だけで世の中と関われるかのような思い違いをしてきました。



仕事と平行してヨガをしていても、何年もそうでした。いまでもその思い違いは、油断をするとすぐに発動します。
わたしはハタ・ヨーガを先に始めましたが、数年後にアシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨーガもやるようになりました。後者は始めてすぐの頃に、自分をアクティベートしてくれる要素と同時に危険性も感じました。ポーズよりもその中間をつなぐ「所作」のほうに重きを置かないと、普段自分が置かれている環境との組合せ的にヤバい。と、そういう感じがありました。目標達成や数字を重視する環境にいるわたしには、決まっていることを詰めていく感じがあまりにも仕事と似ていて、燃えているときに怖さを感じる。なので手のひらや足の裏の感覚を微細にすることを意識的に楽しむとか、立ちくらみの具合を観察するとか、そういうことに関心を多く置くように工夫してやってきました。



どの業界でも同じようなことはある思うのですが、わたしが身を置く環境は「効率」「合理性」「目標達成」「前年同期比○○%アップ」を追求するムードが濃く、人口が減っているなかで「前年同期比○○%アップ」となれば、同じ人間をいかに執着させ続けるかというところに流れやすくなります。それはもう天使と悪魔がささやくなかでバランスを取るような、道徳心が磨耗する仕事でもあります。
でも


 数字と愛憎関係に陥ることができれば、なにかを麻痺させることができる。



この「なにか」について、わたしはいまもずっと考え続けています。そのきっかけをくれたのが、アシュタンガの練習でした。以前、ケガについての視点で少しだけ書いたことがあります。(⇒自分の体重の構成にものすごく繊細になると、ケガをしにくくなる



この練習を何年もつかず離れず続けています。
「ひとつひとつ、やれるポーズリストをつぶしていきたい」みたいな感覚があまりないので片手間っぽく見えるかもしれませんが、自分なりに細かすぎてわからない部分を愉しんでいます。「決まった順番・メニューで、数が多い」というのがよいです。
日常に波及していく効用としては、以下のようなことを感じています。



 興味に関係なく、仕事をこなせる
 興味に関係なく、他人と関われる



「興味」と「取り組み」に距離がある状況に慣れるということが、効用として大きいと感じています。
アシュタンガには、まったくどうにもスキップしたい気持ちしか起こらないアーサナがいくつもあります。でも何年もやっていると、たまにフォーカスしてみようという気が起きて、そしてそれがなぜかブームになるときがあります。



 まさかあなたとこんなに仲良くなる日が来るなんて、思ってなかったよ!



みたいな再会が、なぜかある。これは、惚れなおす感じとは別のもの。
こういうのはある程度数をこなさないと見えてこない景色かもしれません。もともとそこまでやらなくても空気を読んで世の中に適応できる性格なら、わたしは練習を続けていなかったように思います。そんなわたしなので、自分でリードするクラスでも、大前提として「思考する脳があるというのは、苦しいことだ」というところを共有できているかどうかを大切にしています。


夢中になれるって、楽しいことです。でもひとたび冷静になれば苦しみが出てくる。そしてその後、あたたかみがでてくる。この繰り返し。神の手のひらで踊らされているなぁ、みたいな気持ちが、やっぱりあるんですよね…。インド人の考えることは、おそろしいなぁ。