うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガでいろんな動きをするのは、恥ずかしい?

恥ずかしいという感情って、ふしぎですね。今日の話は、以前ヨガクラスの参加者のかたとお話したことをベースに書いています。
ヨガをするのが恥ずかしいと思う人って、どういうところが恥ずかしいのだろう…と目の前にいる人たちにきいてみたら、脚を開いたり上げたり、いろんなかっこうをするのが恥ずかしいと思う人がいるようですよと教えてくれました。
わたしはヨガでどんな体位になるのもコケるのも恥ずかしくないのですが、フラダンスやベリーダンスのように「メッセージ」「求愛」みたいな要素があると「恥ずかしい」と感じます。内面を表現する感じが恥ずかしいのかな。

 

ヨガの場合は体位の形状の恥ずかしさ。たしかにわたしも、なんであの骨に恥骨(ちこつ)って名前を付けたかね…と、たまに思ったりします。ブージャンガアーサナ(へびのポーズ)のときに床に押し付けている骨です。
ブージャンガ・アーサナの場合は恥骨が床に向いているからいいけど、そうでない方向へ恥骨方面を押し出すかのような動きって、そこを意識してしまうと恥ずかしい。少年隊の仮面舞踏会とか、わたしちょっと見てるだけで無理だったもの。あのラクダのポーズみたいなやつ。ウシュトラ・アーサナね。

・・・あれ。なんの話だっけ? またヤングを置き去りにする穴に落ちましたかね。いつもごめんなさいね…。

 

 

そう思うと、恥ずかしいと思う方向と子どもの頃からの価値観って、意外と結びつきが強いように思います。

 


 内面を見せるのが恥ずかしい

 


この内面にもまたバリエーションがあります。わたしはカポエイラ太極拳が好きなのですが、忠誠心が外に出るのは恥ずかしくない。
「メッセージ」は恥ずかしいけれど、「型」「忠誠」はテンプレートがあるからそれよりも恥ずかしくない。
そうか、こういう気持ちになる人もいるのかな。

 


 信仰っぽくて恥ずかしい 

 


ヨガなんて、もうこの最高峰みたいな感じですもんね。マントラとか唱えちゃうし。
わたしはこういうの全般、わりと平気なんですよね…。修行っぽい身体の動きが好き。
太極拳は、子どもの頃にカンフーにあこがれた余波でやっています。わたしが練習している二十四式はアシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨーガのプライマリー・シリーズみたいで、覚えていくのが楽しいな、と思ってやっています。あれもひとつのヴィンヤーサなので。

こっちはアリなのにこっちはいやなんだよな…ということって、なんなんでしょうね。ふしぎ。