先日、高校生の頃に観た映画『ティファニーで朝食を』(1961年・アメリカ映画)を30年以上ぶりに観ました。原作小説を買ったので、読む前に観てみようと思って。
日本語でセリフを見聞きしないよう、英語で観ました。みんな早口で何を言っているのか半分もわかりませんでした。
途中まで観て「こんな映画だったっけ? これは観ていなかったかも」と思いました。
オードリー・ヘップバーンやマリリン・モンローの映画を片っ端から観たくてTSUTAYAのビデオレンタルにハマっていた頃に、この有名な映画を観ていないはずがないのに。
完全に話の筋を忘れていました。
後半になったら、やはり断片的に覚えているところがありました。
ティファニー店内での素敵な話を記憶していました。
そしてすべて観終わったあとに大きな発見がいくつもありました。
高校時代のわたしは根本的に大人を尊敬していて、世の中にいろんな仕事や報酬の得かたがあることを知りませんでした。アメリカ人は先進的な人々で、おしゃれな服に身を包んだ人は陽気で明るく生きているのだと思っていました。
見事なまでに、明るくあたたかい要素だけを抜き出して記憶していたのでした。
昔のわたしは "あこがれメガネで見る力" を持っていた。
いまは登場人物たちの行動や身なりから背景が類推できるので、情緒の基盤を持てなかったおしゃれパパ活女子を上品なコメディ・テイストで見せたものだとわかるし、あの陽気なパリピ紳士淑女においても
「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする」
夏目漱石が猫に言わせた言葉があてはまる。
人生経験を経た自分の変化を教えてくれる映画でした。
どぎつい表現のない、子供も観られる映画の存在価値を思い知りました。
自由奔放で迷惑な人たちが運んでくるものをラッピングするセンスが最高です。
あたり前に大人を尊敬していたあの感覚を大人になってから知る方法として、わたしにはこの映画がすばらしく "機能" しました。