きょうは、少し前に考えたことを書きます。
新年の挨拶を兼ねてヨガの参加者の方からいただいた短いコメントの中に、社会的な葛藤のフレーズ(もちろん、いい意味です)が凝縮されていて、この気持ちについてあらためて「自分の場合はどうか」考えてみました。
いただいたのは、こんなフレーズです。
- つい色々と考えすぎてしまう
- 感情をニュートラルに保ちたい
- 他人の影響を受けて気持ちが流される
ヨガをする人から発せられるものとそうでないものでは、わたしにとって少し意味が違います。
このコメントをいただいたときに、自分も初心に引き戻されるような言葉だなと思い、もう一度考えたくなりました。
散漫と執着
1の「つい色々と考えすぎてしまう」は、ヨガの教科書的に言えば、「色々」は散漫で、「考え “すぎる”」は執着。これらを薄めるためにサットヴァ(純性)を増やすことをヨガでは物理的に身体を使ってやるのだけど、これは繰り返し起こるから、薄めていくしかないんですよね。
また濃くなるんだなぁというのは、20年やってみての実感です。
気分転換や気晴らしという言い方もあるけれど、やっていることは「薄めている」「薄め続けている」という作業なんですよね。
感情は誰のもの
2の「感情をニュートラルに保ちたい」は、わたしは自己中心性との境界と「ニュートラル」の区別ができないので、自分にはない感覚です。
これはわたしの経験からの持論&対処法なのですが、「自分の感情を自分だけのものとして味わう」という段階を忘れないように、邪悪な自分も面白がるという発想が有効です。シュールなコントのニーズって、そこにあると思うんです。違うかしら。
アガサクリスティだって、たぶんそれで読まれ続けてるんです。
あの国の人たち、めっちゃ邪悪じゃない?(暴言w)
環境や時代への警戒心
3「他人の影響を受けて気持ちが流される」については、さらに分解したくなりました。
「他人の影響を受けること」も「気持ちが流れる」ことも心が反応しているという状態で、それ自体は基本機能。それがデフォルトにならなければ、なんら問題ありません。
だけどこれを退けたい気持ちがある。
その排他欲求は嫌悪感情ではなく、信条や理想の言い換えであり、それがデフォルト化することへの危機感です。これはたぶん、環境や時代の変化からの影響への警戒心なので、こういう葛藤は、むしろあったほうが正気じゃないかと思っています。
打ち立てない
わたしの場合、いつからか忘れましたが「流されないぞ」というタイプの信条は先に打ち立てないほうが得策と思うようになりました。
「軸のあるわたし」という感覚は、ヨガの練習の後のような気持ちの清々しい瞬間に「できてるじゃん」と思えばいいもので、あくまで感覚です。
普段から信条の有無を強く思うと「嫌だ」の対象(この場合は、”他人の影響を受けて気持ちが流された自分”)も同時に強く敵視してしまうので、よくよく注意が必要だなと思っています。
2023年に似た趣旨のことを書いています。
今日のタイトルの理由
今日はタイトルに、このように書きました。
自己を客観視する時の「客」に「他人」が混ざる
冒頭に前向きな悩みと書いたのは、客観に他人が混ざる時と混ざらない時の境界に気づいている人の悩みだと思ったので、そう書きました。
そこに混じるのが漠然とした他人の存在ではなく、自分の義務・責任だと思えていればいい。
人権意識が高まって「自分で決める」ことが自由の範囲に含まれていく社会では、迷う人がいつまでもそこに居られるようにもなっているし、情報もここ数年で異常に細分化され、増えています。
複雑化しすぎてんのよね。
腕の動きでハートを持ち上げていきましょう。
初心を忘れずに身体を動かせば、ヨガはいつだって楽しいものです。
▼客観について、ポーズの最中に感じる話