今年、遠方に住むヨガ仲間とメールのやりとりをしていたら、「こんな私がヨガを教えてすみません的な気持ち」というフレーズが出てきたことがありました。
ああここにも。というか、わりとこういうフレーズをすでに指導者として活動している人から聞くことがあります。気持ちはわかります。そして、それにもいろいろなパターンがあるように思います。
いまのわたしは「こんな私がヨガを教えてすみません的な気持ち」というのは学びのエネルギーになるから、外には出さずに抱えてみるほうが力になって、よいのではないか。そんなふうに考えています。わたしはどのジャンルの仕事でも、そういう気持ちを抱えていつつ、口に出さない人を同士と感じるところがあるんですよね…。
「こんな私が」には表面的なものから内面的なものまで、いろいろあるでしょう。
- スリムじゃない
- 難しいアーサナができない
- マントラがわからない
- サンスクリットがわからない
- 解剖学がわからない
- 宗教観がわからない
- 神話とか、興味ない
- 哲学とか、興味ない
- ベジタリアンじゃない
- ポジティブじゃない
- 気が短い
- 恨みっぽい
- 年長者をを無条件では尊敬できない
- 修行っぽい雰囲気を内心バカにしている
- 以前とんでもなく不摂生な生活をしていた
いま15個羅列したけど、「やらない」「やれない」「いいのか」と考える理由のリストアップはかんたんで、いくらでも出ます。
いろんな角度から「自分を責める理由」というのはあって、だから資格ビジネスや養成講座ビジネスが成り立つのだし、インストラクターのプロフィールが長くなる。
「やらない」「やれない」「いいのか」という理由を数えあげたとしても、冒頭にあるような「こんな私」の「こんな」は短い文章では出てこないと思うんですよね。複合的だから。ひとりひとりに、そういう思考をするきっかけになるできごとや考え方の癖、日々の刺激との結合がある。
こういうことは、ヨガに限らずさまざまな場面で感じるけれど
他人さえ責めなければ、いいと思う。
もう、これにつきる気がしています。
他人の言葉が自分を責めているように感じることや、ときには名指しで具体的に責められることもあるだろうけど、わたしは自分自身が「他人のことは責めない」と決めて実行できたことが多いほどサクッと死ねると信じているところがあって、抱えるようにしています。
徳を積むというのは、なんとなく、そういうことなんじゃないか…と思ったりする。
人のせいにしながら日々を食い散らかしたあとの、
あの後味の悪さを、来世も味わう?
あなたそれ、やっちゃうぅ〜?
インド思想を学んでいると、そら宗教は人間が描いたもので聖典は人間が書いたもので人間社会の法は人間が定めたものだとわかっているけど、こんなおもしろい提案をされているような、そんな気分になることがあります。
そして上記の3行の文章の中に、「来世も味わう?」のワンフレーズがあるのとないのとでは、言葉の力がずいぶん違う。
人間界でまたやり直すこんな私が
と思っていると、周囲も「やり直す」仲間たち。なんとなく敗者復活戦のようになってきます。「また戦うのか」って感じなんですけどね。まえにこの感じをギーター読書会での雑談のなかで
わたしオリンピックとか見るの、すごくつらいんです。
でも、3位決定戦ってのは、応援する気になれます。
なんというか、「一度負けてるし!」みたいな感じが
応援のきっかけをくれるというか…
と話したら、「そう来るか!」と爆笑されたのですが、でもなにか、そういう感じがある。
ちなみにわたしはアーサナをしていると自分は以前「虫」だったのではないかと感じることがあって、周囲の人のことも「この人、ジメジメしたとこ、すきねぇ。以前、ブロックの下にいたのかな…」なんて思ったりしています。
みんながみんな、虫から移行しているわけではないだろうに。きっと猿や豚やカッパだっているよね。
monkey magic!