うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

アーサナの練習も書くことも、関係性への没入から抜け出す練習

「自分と向き合う」というのはどういうことか、どういう作業か。実感していることを書きます。
身体と向き合うには、鏡や池など姿の映るものを使ったり、視野に入る部分は直接見ることができます。そりゃそうだという話なのですが、わたしは自分の身体を意識して見るというのも大切なことと思っていて、たとえば座位で前屈をしてどこまでいけるか。おなかが太ももに近づくか。鏡はなくても、脚をここまでつかめるようになったというのを直接見たり皮膚で感じることで、自分の肉体のありさまを確認することができます。

 

 

思いを文章にすることもアーサナの練習と似ている

一発でさっとできないアーサナを、こうかな…、こうかな…と手足の置き方や体重のかけ方、いろんな角度をシミュレーションしてみる作業は、文章の推敲とよく似ています。身体と文体の違いでしかありません。
わたしは他人がヨガのポーズをとれるようになっていくのを見るのが好きで、それはまるで推敲プロセスを見せてもらえるかのようだから。わたしのひとことでポーズが安定する人を見ると、その人が探していた単語を代わりに見つけて助けることができたような気がします。
その人が主体的に推敲をしていなければ、わたしが言葉を渡しても何も起こりません。余計なことを言ってしまったと思うこともあります。

 

 

推敲に溺れることもある

アーサナの最中は、同じ身体内に押される側と押す側の、陰と陽の関係がたくさん発生します。その関係性を観察できるようになるのは、身体がその型を覚えはじめてから。
むずかしい角度でバランスしたり、腕のつかみ方がむずかしかったりして修練が必要なアーサナの場合、できるようになるまでの間に

 

 

 ここをエイっとやれば、"なんとか" なるんじゃないか
 エイッ。ヤーッ。もう。行けっ! なんとかなれっ!

 

 

と、妙にその部位に執着してしまう、短絡的にやっつけたくなるトラップがたくさんあります。
このパッションとエネルギーを鎮めて雑にならないように取り組めればケガをしないのですが、沼にハマってしまうこともある。わたしはこれを関係性への没入と捉えています。

これは人間関係で起こるものとも似ています。どうしても論破しなければ気がすまなくなっていたり、相手にダメージを与えなければ気がすまない状態と似ています。

 

 

推敲筋はじっくり育てる

わたしは「それでもやろうとすれば、運動神経回路が少しずつつながっていくから」と練習中に言うことがあるのですが、
これは

 

 推敲はしてほしいけど、溺れないでね

 

という複雑な気持ちから。この推敲が楽しめれば、ヨガをずっと好きでいられる。
心の推敲筋は日常でとても役立つから、推敲してほしいなと思います。複雑なことに向き合う練習になるし、複雑なものに向き合えるって、楽しみを増やすことでもある。
「できる/できない」「やっつけた/やっつけられなかった」の二元論に陥る心は、日常でも「役に立つ/役に立たない」という実利でものごとを判断してしまう心と似ていて、それは「おもしろい」を見逃してしまう思考でもある気がして。「おもしろい」はどちらかというと役に立たない側に寄っていることが多いのでね(笑)。


深刻になりすぎない方法のひとつ。わたしの場合はヨガでそのあたりをいつも探っています。探っているというよりも、「まさぐっている」感じです。あっちこっちに腕や脚を通しながら、ゴソゴソとまさぐっています。