うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自分と社会の間にある、ガラス板のようなもの。ワークアウトとお酒の話(「すべて真夜中の恋人たち」読書会より)


社会の中で役割を認識したうえでなにかを我慢することについて共感するところがあるな…と思う人と、「すべて真夜中の恋人たち」の読書会をしました。
とくにまとまった話をしたことがない人でも、何度かお会いしているうちに継続的な態度から労働観のようなものが伝わってくることがあります。わたしが声をかけた人は年齢もはたらき方も居住地も境遇もさまざまですが、こういう話をするのに業種や労働形態は関係ありません。子育てや看病など家で仕事をする人も、血中自営業濃度が高い人は高い。
いつも心根はどこにも居場所がないと感じていても、その気持ちに向き合う人は自分の居場所を着実に創ろうとする力があるように見えて、そういう力が、わたしの目には人間的な魅力として映ります。寄りかかる先を探し回ったり食い散らかしているだけではない、バランスを取ろうとする主体を感じさせてくれる錘のようなもの。その重量の感覚が大人同士の信頼関係のもとではないかと、そんなふうに思うことがあります。


そんなこんなで数名の人と話をした中で、「お酒」の話になる一幕がありました。今日はそのときのことを書きます。
話をした人のなかに、「もしかしたらわたしにもアルコール依存症のケがあったのではないか…」と感じたという人が一名(Pさんとします)、そして、「ああ、わたしもだ…(笑)」という人が一名いらっしゃり(Qさんとします)、ワークアウトとアルコールの共通点について話しました。
「すべて真夜中の恋人たち」のなかのアルコールの描写は、まったく飲まない人にはピンとこないかもしれませんが、とてもリアルです。PさんとQさんは共通して、以下の部分を印象に残った箇所としてあげられていました。

手足はなんとなく重くなった気がするのだけれど、しかし部分部分で軽く感じられるようなところもあって、それから頭のなかがすこし広がったような感触がするのだった。あれこれ感じていることが忘れない程度に遠くなり、緊張がゆるんで、色んなもののあいだにガラス板でもはさんだような感じがしてぼんやりしてくる。自分の輪郭がどんどん薄くなっていって、自分についての色々なことが誰がべつの人の色々なことであるように思えてくる。うつむかなくなる。
(3章・これまでお酒を飲まなかったのに、飲むようになった冬子の場面)

Pさんはこの場面の「ガラス板」「うつむかなくなる」という感覚に共感するのだそうです。気になったのでくわしくお話をうかがったら、このような理由でした。


(以下Pさんのコメント)
冬子さんは、新しいことをはじめるときに飲むようになっているように見えます。そこで一枚、距離を隔てる壁がないと新しいことをできないのではないかと。新しいことをすると傷ついてしまうのがわかっているから、そこに壁を設定して、それがあることによってアクティブになれる。お酒を飲むと外に出て行ける。
自分にも学生のときにそういう時期があって、楽しくて、壁があるから傷つかなくてアクティブになれていました。この部分を読んで、(自分にも)アルコール中毒のケがあったんじゃないか、あぶなかったんじゃないかと思って。


このとき、わたしはそれまでお酒に対しては "過去(記憶)をごまかすために飲むもの" というイメージがあったのですが、たしかにPさんのお話を聞くと、"未来をごまかすため" のようにも感じます。ほかにもうなずいている人がいたので、掘り下げてみることにしました。


うちこ:Pさんがいまおっしゃった「壁」は、この小説の引用の部分でいう「ガラス板」ですね。

Pさん:そうです。

うちこ:それは、バリアのようなものですか?

Pさん:はい。

うちこ:……ヨガやワークアウトって、代替になると思いませんか?

Pさん:なると思います。

うちこ:わかるなぁ。わたしも、そうだったので。

Pさん:え…。

うちこ:お酒とかドラッグのかわりになるというの、わかる…。

Pさん:え…。(笑)

うちこ:わたしはこれまでいろんな運動をしてきたのですが、どれも結局は緊張や判断を強いられることばかりで…。自分で、そうしてしまうんです。でもはじめてヨガをしたとき、なんだかお酒の味を覚えたときみたいな感じがして「いいもの見つけちゃった」と思いました。

Pさん:よくわかります。お酒ほどあぶなくないし、コントロールはききますけど。はい。

うちこ:だから、オウム真理教のああなっちゃう感じとか、あるだろうなと…。振り切っちゃうってこと、あるだろうな、と…。

Pさん:あー。

うちこ:グルがガラス板になってくれる感じがすると、ああなるのだと思う。

Pさん:あーーー。

うちこ:グルに帰依しているというタテマエが社会との接点のバリアのようになって、思いっきりやれる。みたいな感じ、あるんじゃないかな…。

Pさん:あーーーーーー。


このあと「ちなみにわたしはヨガ講師をしていますが、ぶ厚いガラス板みたいになることはありませんし、むしろプレパラートか! くらいの薄さで "おまえがいちばんあぶない" と思われるところに居続けているので、安心してヨガを習いに来てください」と言ったら爆笑されたのですが、関西でもヨガのこういう側面に対して、経験を経たうえで意識的な発言をする人がここ一年の読書会で増えているように感じます。
ドラッグやアルコールではなくこっちに来たらいいよ、と、ヨガについて胸を張っていえるかというと、肉体的に胸を張ることは可能であっても精神的にはどうかな。
ここについて懐疑的でなくなると、ポキッといきそうなんですよね。軸は、しなやかに揺れてなんぼかな。と。
とにもかくにも、冬子さんが帰ってきてくれて、われわれは自分ごとのようにホッとしたのでした。



今週末はこの本を読み始めるのにとてもよい週末です(読み始めたらわかります)
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