うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「空気」の研究 山本七平 著


この本はロングセラーらしく、最近また書店で平積みされているのを見かけました。
そしてこれだけこの本が売れて読まれていても、インターネットで多くの意見が可視化される時代になっても

問題の焦点は、なぜ感情移入を絶対化するのかにある。
(空気の研究 三 より)


多数決原理の基本は、人間それ自体を対立概念で把握し、各人のうちなる対立という「質」を、「数」という量にして表現するという決定方法にすぎない。
(空気の研究 七 より)

これらの疑問は続くから、これが国民性なのかとわたしはあきらめているけど、だがしかし。
だがしかし、メディアのビジネスモデルの多くが広告である以上、避けられないなにか。こういうものが、あるにはあるし。


わたしはこの本に書かれていた、日本的儒教儒教と言ったら孔子も怒るだろうという主旨の指摘が好き。

父子ではない社会や組合といった組織にまで父子の倫理を拡大してこれを儒教と呼べば、彼自身が激怒して反対したかもしれぬ。もっともこの点には複雑な問題があると思うので、以上の規定は一応、変形された「日本的儒教」と呼ぶべきものと考えよう。
(水の研究 六 より)

ヨガもこういうこと、すごくある。それ誰のコメンタリーに便乗していうとるの? 教典はそんな意図で書いていなかったかもよ… みたいなことが。



以下は引用部分なのですが、ゾワッときました。

 日本は、実にふしぎな国である。研究室または実験室であるデータが出ると、それを追求するよりも早く、何かの力がそれに作用する……。(北条誠『環境問題の曲り角』の中のスイスの製薬会社社員の言葉)
(水の研究 九 より)

理化学研究所の問題の予言になっているような。


 ではここで、われわれはもう一度、何かを決定し、行動に移すときの原則を振りかえってみよう。それは「『空気』の研究」でのべたとおり、その決定を下すのは「空気」であり、空気が構成される原理原則は、対象の臨在感的把握である。そして臨在感的把握の原則は、対象への一方的な感情移入による自己と対象との一体化であり、対象への分析を拒否する心的態度である。
(水の研究 九 より)

この本に出てくる「臨在感的把握」という表現は、よくこんなズバリな表現が思いつくものだと思う。


しかしわれわれも、心のどこかでわれらの "ファンディ" を待っているのかもしれず、またその出現を恐れて "自浄作用" を期待しているのかもしれない。
(中略)
根本主義ファンダメンタリズム)とは何なのか。これは日本人にとって最も理解しにくく、従って「目をつむって避けてしまう」プロテスタントの一面であり、そのためファンダメンタリズムについての解説書はおそらく日本には皆無であろう。日本で知られているその一面は、前述の進化論裁判(モンキー・トライアル)、すなわち「聖書の教えに反するから進化論を講ずることを州法で禁止する」といいった考え方が出る主義ということである。
(日本的根本主義について 二 より)

この部分はものすごくおもしろいので、気になる人はぜひ読んでみてください。


 人は、論理的説得では心的態度を変えない。特に画像、映像、言葉の映像化による対象の臨在感的把握が絶対化される日本においては、それは不可能と言ってよい。カドミウムが "カドミウム" である者に対して、カドミウムが金属であることを論証しても、同じような手法でお札が紙であることを論証しても、御真影も遺影デモも紙と画用紙とインキであることを論証しても、それは一冊の本もまた紙と印刷インキであることを論証するのと同じように無力なのである。この無力を知るとき、(以下略)
(日本的根本主義について 六 より)

以下略のところがこの本の構成、タイトルのすごいところだと思うので、引用せずにおきます。ここまで読んで気になっちゃうなら、全部読むとよいと思うのです。


それにしても「空気」と「水」に喩えた説明はうまいものだと思います。
このうまさを感じて実際この本が売れても、それでも山は動かない感じがまた。(もちろん、ジリジリと変化しているけど)
自分がどういう環境で生きてきて、これからも生きていくのかを突きつけられる本です。


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