うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

アイデアの争いの話から思うこと

ここ数か月の間に、「モノ」であったり「メソッド」であったり、そういうモノゴトに対してのアイデアを盗まれたという話や商標に関する話がたまたまふたつ、久しぶりに会った人からの話題としてありました。
ひとつは傷心している当人といっしょに「うーん」なんてうなずいていたのだけど、モノは視覚印象が多くを占める世界だから、やられたほうはメンタルを保つのが大変だなと、しみじみ。


わたしはパクリパクられ問題というのは、パクる人が「身体や手を動かしている瞬間」になにが起きているのかが気になります。
「パクられた!」と怒る側はそういう行為をする思考や倫理観・道徳観に対して怒るのだと思うし、怒る気持ちもわかります。世の中そういうことはないものであってほしいという気持ちはわかる。


いっぽうで、パクる人が身体や手を動かす瞬間の動力には、なにか「ワラをもつかむ思い」に似た苦しみの要素がゼロではない気もする。つかんでいるものはワラではないのだけど、もうとりあえずそこに手を出してしまう感じが。
そこにツッコミを入れることは、水面下で溺れそうになりながらも実は必死に立ち泳ぎでなんとか息をしている人に「ここはわたしの区域の空気だから吸わないで」というかのような残酷さがある気もする。微量だけど。もちろん、法律上それは残酷ではないということでよいのだろうけど…。
これは憐れみではなく、なんというか、それは別の場面に置き換えたらわたしにも想像がつくせっぱつまりかたに見えるのです。



 パクる行為の動力因が
 「ちゃっかり」なのか「実は必死」なのか
 本人も気づいていないのではないか。



わたしは、そんなふうに思うことがあります。
本人も気づいていない動力因でのパクリなのだから、相手のことを憎んだり恨んだりするのも、パクられた側の自由。
自由に恨んだらいいと思うんですよね。こういうときは大人ぶらずに怒ってみては? なんて思ったりする。
なんというか、自由に扱えるのなんて、大人同士の関係における感情くらいしかないから。
相手が大人なら、ですが。