とてもよい本です。
「正気って、どういうことだろう」と思ったときに手にするのに、とてもよい本です。
ヨガの教えは
いちいち作為的に捉えて意味づけをして、苦しんでるのね。
おつかれさま。
さて、それはさておき。
という意識の切り替えと視座を与えてくれるもの。
これはわたしの推察ですが、ヨガを何年も続ける人は「よい人間でありたいモード」と「正気でありたいと願うモード」のグラデーションや境界をうっすらと認識していて、その上で、ヨガに惹かれていたりしないでしょうか。
どうですか?
「捉える」+「意味づけ」
「いちいち」+「苦しむ」
これらの両方をシンプルな言葉で切り分けてくれる人がいたら、その人の言葉で心(頭)を整えたくなりませんか?
「作為的」であることに切り込んでくれる、そんな鋭い教えに触れたくなったりしませんか。
それをしてくれるのが、ジッドゥ・クリシュナムルティです。
言葉がまあどうにもすばらしく、シンプルに響きます。
「いちいち作為的に捉えて意味づけをして苦しんでもいるけど、楽しんでもいませんでしたか」というツッコミのありようもシニカルすぎず、上品です。
クリシュナムルティの本はたくさんあるけれど、この本は言葉の鋭さと美しさを失わないように丁寧に訳されていて、タゴールの詩集を読むのと同じ感覚で読むことができます。
おだやかに効く精神安定剤のような一冊を求めるなら、わたしはこの本をおすすめします。
なんたって「正気でいよう」ってわけだから。
この本のなかで、クリシュナムルティは睡眠の大切さを繰り返し述べます。
頭脳は醒めていようが眠っていようが活動的である。そして秩序と無秩序の絶え間のない闘争のおかげで、頭脳は疲れきってしまうのだ。秩序(オーダー)とは、美徳、感受性、知性が最も高度な形をとったものだ。秩序と調和のこの大いなる美があるとき、頭脳は果てしもなく活動的であることをやめる。たしかに、頭脳のある部分は、記憶の重荷を負わなければならないが、そんなものはごく小さな一部分にすぎない。頭脳の残りの大部分は、経験の騒音から自由だ。その自由が、沈黙の秩序(オーダー)、調和(ハーモニー)なのだ。
<1973年10月19日 より>
穏やかな睡眠のなかに瞑想の総計があるとして、夢のない睡眠状態の重要性を何度もさまざな言いかたで語られています。
暴力についてはこのように語られます。
暴力は殺人や爆弾や流血の革命のなかにあるだけではない。もっと根深く、もっともっと微妙なものだ。順応や模倣は、すでに暴力の徴候なのだ。権威をもたせたり受け入れたりすることは、暴力の徴候だ。野心とか競争は、こうした攻撃性や残酷さのあらわれだ。
<1973年10月10日 より>
これは社会のなかで組織に属していたら、日々ほのかに感じること。
また、このようにも語られます。
思考で造ったものは、また思考で破壊できる。しかしそれは善ではない。時間に属するものではないから、善には住むべき場所がない。善のあるところ秩序がある。それは権威による秩序や賞罰による秩序とは別のものだ。この秩序こそがすべての本質なのだ。これなしには社会は自壊し、人間は邪悪になり、殺人的になり、腐りきって退化していく。人間は社会そのものだ。この二つは分けることができない。
<1975年4月14日 より>
人間は社会そのものだと。
断片的なようでありながら連鎖的で、繰り返し語られるテーマがいくつかあります。
深い睡眠のある生活を個人と社会がデザインしてやっていくことでしか、よくないものから逃れることはできない。
目覚めている間に関係や行動にちゃんと秩序をもたらせば、眠っているとき心は完全に休息できる。そうでない場合、昼間の出来事をもっと自己満足できるように脚色しようと企てる。昼になるとふたたびあれこれの原因で無秩序がひき起こされ、眠っている間、心はこの混乱から脱出しようと試みるだろう。心と頭脳は、秩序のなかでだけ効率よく客観的に機能できる。
<1973年9月21日 より>
物質的な身体は疲れて横になったら休むけれど、精神・心は関係と行動の秩序がないと休まりません。
やることをやりました、もう寝ましょう。というサイクルを守っていくことの大切さを、いまさらながら感じます。
今日抜き出した部分は、いまのわたしのピックアップ。付箋を貼りだすときりがない本です。
日本語訳の文章がとても良く、古本でしか入手できませんが、たいへんおすすめです。