いつ頃からかは覚えていないのですが、毎年この時期に思うことがあります。
8月になると本の感想へのアクセスが増えるのです。
宿題で困った人が文章を探しているのでしょうか。「感想」「あらすじ」「要約」というキーワードとセットで検索されます。
さて。
わたしのこのブログは、コピー&ペーストができないように設定してあります。
その設定を加えた時期は忘れてしまったのですが、自分でCSS(スタイルシート)に記述を追加しました。
設定を変えた主な理由は、読書感想文ではありません。ヨガブロガーさんによる転載や講座で提出される作文での流用、ほかにもいくつか理由があってそうしています。
今日はそんな内部事情を話したいのではなくて、本の感想を介したコミュニケーションはやっぱり楽しいな、という話です。
わたしが読書感想文の検索アクセスから思うのは
パクるにしても
見ず知らずの人の、ヨガの視点をからめた感想文を読むのは
なかなか面倒ではないか
ということです。
わたしの感想を参考にするにも、それを自分が思ったこと・考えたこととしてアレンジするためには主体性を持って読まなければなりません。
そこからさらに、どうやって提出用に整えるか、思考する人格をどのようにチューニングするのか、そこに興味がわきます。
と同時に
大丈夫?
ちゃんとヤングな文章に変換できてる?
とも思います。これは文字通り老婆心です。
だってアタクシの文章ったら、喩えがだいたい、昭和~平成前半でございましょ。
以前コピペが可能な設定のままにしていた頃に、こんなことがありました。
意識高い系のブロガーさんに転載されたときに、そのかたは「経営の勉強をしています。キリッ☆」という感じの顔出し&名前出し女性だったのですが、コピペした文章の中からわたし特有の昭和のおじさんな言い回しがカットされておらず、この一文をなぜ残す・・・と思ったことがありました。
意識高い系の自己紹介+浅野温子ふうのサラサラ・ワンレンのビジネス・ウーマン画像の横に、わ、わしのこの文章がガッチャンコされても、ええんか? ええのんか? と。
(↑こーゆーとこです)
およよ。
おおいに脱線いたしました。
そんなこんなで、わたしが毎年思うことを経てたどり着く考えは
「視点」は「自己」をくぐらせないと、上手にパクれない
ということです。
音楽のメロディの盗作騒ぎで、世代を超えた天才同士になると、パクられた側のほうが「これはオマージュと受け取れる」と認めることがありますよね。そういう感じは文章にもほんの少しだけあると思います。
ですが読書感想文は芸術ではありません。なので着想を得たなどというカッコいいものではなく、それは課題図書に対する読解力のドーピングです。
ドーピングするにも、基礎的な能力と筋力が必要
わたしの考えはここでもう一周します。
これは誰かと話をしているときにも起こります。ほんのちょっとした発言から「あ、この人、わたしの視点が通じてる」とわかる、その一段階前にあるのが読解です。
文章の場合は流れて消えてしまう会話と違い、すぐに戻って確認するように読むことができるので、そこが良いところです。
紫式部が生きていた時代には、物語を書けることが「嘘つき」呼ばわりされて地獄へ行ったという説が信じられていたと、以前国立公文書館の展示で読みました。
その時代を思うと、物語を共有したうえで、さらにそこから引き出された個人の思考を言葉にして通じ合うって、とんでもなく楽しいことです。
なので誰かの本の感想を参考にするにしても「心の交流ツールとしての言葉」そのものに根本的な畏怖の気持ちがあれば、そんなにおかしなことにはならないだろう、ケシカランことでもないだろうと思っています。
毎年ふとこの時期に考えを巡らせることを何年も続けて、わたしはこういう考えに至っています。