うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

るん(笑) 酉島伝法 著

わたしの友人に活字潔癖症の人がいる。漢字の変換が氣になるそうだ。(←こういうののこと)
真っ先に思いついたことを尋ねたら、「氣志團」は大丈夫らしい。「團」に打ち消しの効果があるからかな。これが「氣志団」だと、なんかデコレーションが中途半端だもんね。

そんな友人はブログや Facebook に「氣」の字を見たら怪しむそうなので、わたしも気をつけなければならない。

 


よくよく考えると、一般人がブログやSNSで長文を綴って思いを明かすようになるまで、元気を元氣と変換したい氣持ちは黙っていればわからなかった。それはカバンにぶら下がっているキーホルダーや手首に巻いているもの、待ち受け画面、飲み物などから察していくものだった。
今は文章でそれをあらかじめ察知しやすくなっている。これはセキュリティ・レベルが上がったと言えば言えるけれど、日常的にブログを書いているわたしのような人間には、逆の意味で配慮が必要になる。特殊な熱量で扱われているテーマに意図せず触れてしまうことがあるから。

 


「元氣」「五千縁」などの変換がデフォルトの世界へOSを乗り換える氣概がある人にとって、この小説は仲間の話に見えるかもしれない。もしかしたらこのブログを読んでいる人の中にもいるかもしれない。ヨガのことをさんざん綴ってきちゃったブログだしね……。(きちゃったもんなぁ)
あ、でも大丈夫かな。そういう人は電磁波避けてるもんね。大丈夫。きっと読まれない。んーでもこれは小説の世界の人がそうなだけで、友人はネットで見かける文字と言っていたしなぁ。Facebook のような中途半端に閉じたネット空間では盛んに交流していたりするのだろうか。
困ったなぁ、今日はどこまで正直に自分の気持ちを書こうか。

 


えーでも大丈夫かな。なかなか踏ん切りがつかない。だってこの小説には梵字とかチャクラとか鼻うがいが出てくる。でも比率で見るとインド系の案件はほんの少しで、アセンション(次元上昇)とかミカエルとか西洋系のカタカナも出てくる。神道系が多いのかなと思うけど、丹田とかはやっぱりヨガでも使うしね……。
うーん、なかなか踏ん切りがつかない。往生際が悪くてごめんなさいね。

 


だってわたしの周りには、この小説の世界の価値観を備えた人がたぶんいて(オロオロ)、でもそういうのは聞くだけにしておくのがお互いの思想に踏み込まないマナーだったりして(オロオロ)、、、
オロオロオロオロオロオロオロオロ、、、

 

 

  うちこ、なんだか最近、オロオロする!

 

 

(レオタードのいとうあさこさんの声で再生してください)


この小説はわたしをオロオロさせる。
ひとことでいうと「ナチュラリストも求道者も神道右翼も突出すると区別がつかんぞ」という世界。「思考盗聴防止のためのカツラ?」「いやこれは普通に薄毛が理由だろう」と、珍しく見たテレビを前に夫婦が会話している。誤謬とユーモアが混ざって混乱させられたまま話が進む。

 


段落ごとに誰視点なのかわからないまま読者に察しろといわんばかりのスタンスも、登場人物の意識が散漫な感じをナマナマしく伝えてくるし、各人が思考レベルで搭載しているATOKのようなものを「変換文字」で示される。
このスピリチュアルATOKでは「元氣」「五千縁」なんて序の口。波動のよくないものは悪で「やまいだれ」が付くルール。なのでセリフも「検索のご痢用ですか」となる。これに読者が徐々に慣らされて、漢字変換の法則と隠喩がストーリーの中心に、見たことのない大きな龍のようなものが横たわっている。

 

わたしはこの小説を読むまで「神体文字」を知らなかったので、それを日常に取り入れるのはまあ祈りといえば祈りだけど、一般社会の業務で作成する文書でやったらまずいもの。信仰の自由ってなんだろうと思う。
この世界の住人たちは出産する人から胎盤をもらう約束で揉めたり、無痛分娩で生まれた人は他人の心の痛みがわからないことになっていたりして、とにかくいろいろ大変なのだけど、最後まで読むとその世界で守られて生きている小学生たちは幸せそう。


この本を読みながら想起する「信じて実行する人々」は世代ごとに分かれてくると思うけれど、わたしは美白の女王と言われた人の提唱した食事や健康法、飲尿健康法を行なっていた有名人が思い浮かびました。
こういう信仰は子供の頃からずっとあることだから、異様ではあるけれど他人事でもない。電磁波は悪で組体操は善という思考の人だって口にしないだけでいまも数多くいるだろうし、アップデートという概念はインターネットをシャットアウトしている人には届かない。反対側から見ればわたしはテクノロジーを無警戒に信じすぎている者だろうと、自分でも自分をそう思う。とにかく、あっち側とこっち側で揺れる。

 

 

さて。この本を読み始める数日前に、こんなことがありました。

高田馬場駅の前に、マスクをした生活が免疫力を下げるという演説をしている人を見かけました。もちろんマスクなしでの演説。「武士道」というのぼり(縦長の旗)が近くにありました。

話している人はこわい人って感じでもなく、むしろ人情味溢れる感じ。その話しぶりから、信念を持った安定した人とも感じられる。話の内容を遠くから聞いていると、シンプルな主張の文脈に陰謀論が含まれ、オチには賛成だけど、その文脈だと賛同できない。でもオチには賛同したい気持ちがあるから、絶対的な嫌悪感は起こらない。

これが2021年4月の、つい先日のこと。


この小説の第一話目『三十八度通り』が発表されたのは、2015年5月。そこに登場する、高熱を出して薬を飲みたがる夫に「どうして自分の体を信じてあげないの!」「免疫力の……立場」「気持ち、なぜ考えてあげない」と怒る妻は残酷なのかと考えた瞬間に、高田馬場駅でのつい先日の脳内葛藤を思い出しました。
言っていることがやや極端であるという認識、でも言っていることはわかるよという、わたし個人の氣持ち。
見たいものだけを見て信じたいものだけを信じて生きていきたいと思った時に、今後はこの小説の世界をふわっと思い出すことになりそうだし、もちろんブレーキとしての効果はテキメン。好き嫌いの感覚を大切にすることの光と闇を、ぐちゃっと見せられました。

 

わたしはインドの書物を原語(表音文字)で読むようになってから、日本人が「表意文字によるインプットで狂っていく」という現象が年々わかるようになってしまって、それ以来、読書はなるべく昔の純文学を選ぶようになっています。その上で、三島由紀夫には氣をつけています。それを美しいと思う感覚を警戒している。

この『るん(笑)』はわたしがここ数年で掘り当てたなにかを思いっきり形にしていて、憑依文字世界の恐ろしさを客観的に見ることができ、氣憑きがありました。

 

るん(笑) (集英社文芸単行本)

るん(笑) (集英社文芸単行本)