ヘルマン・ヘッセの「デミアン」を題材に、このブログを見てわたしを知ってくださった人たちと関西で読書会を開催してきました。(2019年の開催案内はこちら)
なぜこの作品を題材に読書会をするのか。それは、読んだ人ならみんなわかる。「デミアン」はそういう小説です。
わたしの開催する読書会は事前に宿題をやってもらうので苦しいという人もいるけれど、そんなにむずかしい質問はしていません。それは参加する人もわかっていて、苦しいのは「自分の思考を言葉として確定させるプロセス」にあります。
日本語は言語以外のコミュニケーション要素が豊かなので、なおさら。宿題はできてもできなくても、たくさん書いても書かなくても、その苦しさの性質を認識した人が集まる場でしか共有できないものが確実にある。それが成果。
「デミアン」という小説はある種の「きまじめさ」との戦いの物語。その「き」には「生」よりも「清」「潔」という漢字のほうがしっくりくる。これも、読んだ人であれば全員わかっていること。
そんなベースの上でいろいろな話をしたのですが、関西ではわたしも思いっきり関西仕様に途中からギアが入っていきます。宿題でいただく文章からして半分は関西弁なので、どんどんそのペースに呑まれていきます。
そんなモードで関西のみなさんと「きまじめさにこだわると、こうなっちゃう」というとても苦しい少年の日々を追いながら
やっぱり自分の中に、キヨシもヤスシも必要なんですよね
という談議になった瞬間がありました。
そう言ったのはわたしなのですが、その頃には説明要らずの一体感ができあがっていました。
「怒るでしかし」
の「しかし」の重要さ。
今日はヤングを完全に置き去りにする前提で書いていますから、がんばってググってついてきてくださいね。
「大きなことはできません」清いね。さすが、きよし師匠!
「小さなことからコツコツと」いいね。まるでヨーギーだね!!
まじめで清い心は聖なる感じでヨギーっぽい。うんうん、実にヨギーっぽい。
でもそれじゃあ、ボケがいない。ボケ不在では漫才が始まらない。人生の舞台が始まらない。メガネを失くそうにも、探そうにも、メガネをかけた人がいない。
わたしはインド思想を学び始めたころ、そこに出てくる喩え話にうなるたびにインド人てすごいな…と畏怖の念を抱きつつ、日本にこういう感じの教えってあるだろうか…。そんなことをよく考えていました。
2009年の時点で、こんなことを思っていました。
やすきよの提示する「いま、ここ」への意識をインド思想と重ねていました。
なので今回は適切なタイミングで思いを共有できて、とてもうれしかったです。
やっさんは怒っているだけではないのです。「怒るでしかし」と言っている。この「しかし」の甘露を見逃さない。そんな意識でいたいものです。